(写真は奈良の龍穴。室生寺近くにある龍穴神社神域)
2011年度 10
『 歌舞伎十八番集 』
「鳴神」
『歌舞伎十八番集 』から「鳴神」
日本古典文学大系 98
P、193~232
岩波書店
昭和40年 (P,502)
昨日読んだ『歌舞伎十八番集 』「鞘當」で気を良くしたわたくし。今日は「鳴神」を楽しむ。
『歌舞伎十八番集 』「鳴神」は正直 現在の歌舞伎で脚色されたものよりも陰の部分が極端でおもしろい。
例えば雲の絶間姫(最初 当麻姫)が現れた時の坊主たちとのやり取りはストレート。
波打つような会話のやり取りで、現在も歌舞伎ではここまでの表現はない。
事細やかに単語は意味を持ち、笑いがこらえきれないのが現状。
歌舞伎でも大笑いだが、日本古典文学大系に載る「鳴神」は直球の笑い。
ところが、雲の絶間姫が癪の痛みで 鳴神が彼女の胸元に手を入れる場面では逆転。
現在 歌舞伎では
鳴神「ちぃちいぃ。ちちのしたかあ~」
ごめんなさい。実際には「ちちのしたぁあ~」です。いつも誤字ばかりで、ごめんなさい。
本書 「鳴神」
小難しい当時の医学用語で胸から下に向かう
この部分でも、古典で読む方が奥行きがあり、ユニークだ。
付け加えるが歌舞伎ではここの場面は客席を湧かすところ。
確かに今の演出も台詞を一本調子にとり、強烈な笑いを誘う。
鳴神が雲の絶間姫の色にはまり、言う台詞が古典本では載っている。
その名は「市川團十郎助平~」 (東寺舞台毎に 鳴神役役者名に変更)
この台詞は現在の歌舞伎「鳴神」では省かれている。
役者の見得のきりようと、観客の興奮度が、想像できる。
歌舞伎は今のように芸術化気取りせず、庶民の楽しみだあったことが伺える。
日本古典文学大系の『歌舞伎十八番集 』「鳴神」で歌舞伎本来の姿をみたような気持ちを味わえた。
コメントありがとうございます☆^^☆
今日天理で『和爾』や『柿本人麻呂』のお話を聞いてきました
本当ですね
運動会もそうですね。あと、そう盛大ではありませんでしたが、地蔵盆なんかも、わたしの子供の頃はそうでした。
そうかもしてませんね。
色々な要因があるのでしょうね。難しい問題ですね。
日本よ!!元気になれ!!
アハハ
本当に^^ちちんぷいぷいぷーーい
難しいことは棚上げにして、個人的には身近名可能なことから楽しみましょうっと☆
なんだか楽しいことがあっちこっちに転がっているようですよ
明日も気楽にマイペースで楽しんで下さいね!^^!
わたしも
ありがとうございます☆
ごめんなさい!
わたしの誤字で、「・・したぁあ~」のところを「したかあ~」と書いていました。コメントをいただき気がつきましたので、初めのままにしておきました。
ごめんなさい&ありがとうございます☆
おっしゃる通りです
最近では歌舞伎鑑賞も気合いを入れねば行くことはまかりなりません。内容からして、高すぎると感じることが多々あります。
歌舞伎は最近では多種多様^^の和装や洋服の方がいらっしゃいますので、服装は清潔であればOKです☆
昔わたしが高校生の頃は三階席700円(顔見世800円)で入って二回枡席で見られました。規制がゆるく、観客も少なかったんです。今は南座も枡席はなくなりましたが、二階一番前は芝居全体が見られ、見やすい席のひとつです。役者も花形が総出演。今では考えられません。わたしにとってはラッキーな歌舞伎鑑賞の幕開けでした。
知らないのですが、庶民の世界に下りてきたというのは、里神楽ともいいますか?これって、わたしのあこがれです。
お酒を手渡し、村人にじゃまにならないように鑑賞するんですよね^^毛布もって食べ物とかお酒とか持ち込んでってって、本来の芸能のありかたなのでしょうね。
男だったらなぁ!うらやましいです~!
本に出てくると、神楽は日本の心のように感じることが度々あります。
ししさん
寒いので風邪をひかれませんように☆
楽しんできて下さいね^^
歌舞伎の観劇って、着物など正装がよく似合います。入場料も高くなる一方ですし、素人には難解で、何せ敷居が高い。最初は阿国のように庶民性豊かで誰でも楽しめたはずなのですが、いつの頃から今のように、見る側が接するのに覚悟が必要になってきたのでしょうか。
その点、神楽は神職の手から庶民の世界に下りてきた頃から、いつでもお酒片手に、老人も若者も夜を徹していっしょになって楽しめるところが長く愛される所以でしょうか。