乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

映画『富美子の足』 原作:谷崎潤一郎 監督・脚本:ウエダアツシ 4★  2018年 片山萌美 淵上泰史 武藤令子 山田真歩 福山翔大 田村泰二郎 でんでん

2019-08-18 | 映画
 法隆寺




   映画『富美子の足』 原作:谷崎潤一郎 監督・脚本:ウエダアツシ 4★  2018年 片山萌美 淵上泰史 武藤令子 山田真歩 福山翔大 田村泰二郎 でんでん



 先日映画『神と人との間』 (監督・脚本:内田英治 谷崎潤一郎原案)をみた。

 乱鳥の谷崎潤一郎原作映画の第二段目は 『富美子の足』

 よくぞここまで狂気な世界や性格を表せるなと感心し、最後まで楽しんだ。


 淵上泰史(ふちかみやすし)さんの迫真の演技には見入ってしまった。

 いつしか富美子の足に魅了され、狂気に転じ深みにはまりながらも、富美子への人格を持った足を愛し、罪をきるといった方法で愛情h蕩減する男に、切なささえ覚えた。


 今回も簡単な記録のみにて、失礼申し上げます。




 2018年
 日本 / 上映時間:
 81分

 監督 ウエダアツシ
 脚本 ウエダアツシ
 原作 谷崎潤一郎

 出演者
 片山萌美 淵上泰史 武藤令子 山田真歩 福山翔大 田村泰二郎 でんでん

 

 
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子が連れてくれました 2   ジャズライブを楽しむ

2019-08-18 | 音楽Live



 
      子が連れてくれました 2   ジャズライブを楽しむ




 子供がお盆に帰って来たので、ライブハウスに付いて来てくりゃれぇ〜!と祈願する ばか(違った、はは)

 子は苦笑しながらも
「明日、行くぅ?」
と、そこは親孝行な一人前の子供。


 あれこれ探してくれたが、中には大きな会場で、「小柳ゆき&大黒摩季」というのもあった。

 子は
「これで良いか?」
と問うが、乱鳥、首を縦にはふらぬ。

 しびれをきらした子供が、具体的に希望意を言うようにと言うので、次のような条件をつけてみた。


      Jazz喫茶で夜ライブ
      或いは
      得々か十得かミューズみたいなところ
      或いは
      ライブがなくても、京都時代のブルーノート(今は奈良に移動)かしあんくれーるかふうんじゃらーむ
      のような、文庫本一冊を読んで帰れそうな雰囲気のところ

 要するにジャズでもクラッシックでも演歌以外なら良いが、中学高校大学の頃慣れ親しんだ音楽的空間の大阪版を希望した。


 子は京都の大学へ通ったが、小学生の頃から上本町まで塾通いをしていたために、大阪はある程度は詳しい。

 要望を満たし、すぐに見つけ出してくれたのが、次の店。

 

    COMODO

    Anri Ikeda
    Vo: 池田杏理
    Pf: 堀智彦/B: 荒玉哲郎/D: 東敏之
    パワフルな歌声と光る個性でオーディエンスを魅了するキュートなヴォーカリストです。


 店は大人の雰囲気で、しっとりと音楽を楽しめる。

 お酒は美味しい、ゆったりとした空間。

 おまけに行く途中には一部柳も生え、京都の大丸裏、文化会館近くを歩いているような懐かしい光景の場所もある。

 落ち着いた居心地の良い通りを歩くと、落ち着いた店に入ることができた。


 また、Anri Ikedaが素晴らしい。

 曲は「枯葉」から始まり「スイングしなきゃ  云々」で終わる。


 ボーカルの池田杏理さんは声を転がす操って裏割れていた。

 いやぁ!うますぎる。ファンになりそうだ^^

 楽器で堀智彦さんは歌い、荒玉哲郎さんは弾み、東敏之さんは跳ねておられた。

 池田杏理さんの声とドラムの掛け合いに心は紅葉した。


 初めて訪れたCOMODOはゆっくりとした時間を楽しむことができた。

 この日お頼みしたのはドリンク各二杯とおつまみのみだったが店にはお食事も用意できるようなので、次は早めに行きお食事後にライブを楽しみたい。


 かって学生の頃にニューオリンズに行こうとしたが、なんとなく一人旅を断念した私。

 音楽も聴くのは好きなので九月初旬には六本木あたりでライブを楽しむ予定だが、さてさて 夫がどうなることやら(笑)


 道頓堀は歌舞伎も良いが、こんな楽しみ方ならできることなら毎日でも!と喜びころこび、目から鱗。

 池田杏理さんのような素晴らしい歌声でスイングしていたい


         と、
           心は学生の頃で止まってはいるが
           鏡を見れば
           非常に可愛いお年頃になった 浦島たろこ的乱鳥 は思うのでった。


 



 それにしても親孝行な子である。

 連れてくれた子に、

 快く送り出してくれた夫に、

 そして今回お世話になったCOMODO様に感謝^^

 
 

 

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子が連れてくれました 1    子が連れてくれました 2 に続く^^v 

2019-08-17 | お出かけ

 子が連れてくれました 1



 
 

 

 

 

 

 

 中学からの友人たちと旅行に行って来た明るい声の我子。

 日も開けず此のお盆に三泊、帰ってきました。

 そして、またまた本日は友人と会っている忙しい彼です。


 昨夜は子供と難波に行きました。

 正式には、連れてもらったというのが正解かも^^

 なぜなら     あっはっは

             子が連れてくれました 2 に続く^^v 


 

      夫はお留守番  アホやな!
      大阪   難波にて





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『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「随筆に見る江戸の風俗」    出典 『塵塚談』国立公文書内閣文庫所蔵

2019-08-17 | 読書全般(古典など以外の一般書)


 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「随筆に見る江戸の風俗」    出典 『塵塚談』国立公文書内閣文庫所蔵







 『塵塚談』とは    (現代思潮新社 『塵塚談』 内容説明)
  江戸時代、市中見聞談と幕末俗事奇譚とをあわせ収める。不忍池の変遷、男色楼のこと、俳諧に関する雑話、多葉粉のこと、吉原遊女やケコロの話、又、大麩羅の始め、二八蕎麦のこと、町飛脚の始まり、うなぎ飯の始め等、興趣あふれる奇事故事満載の本文に、江戸市民生活年代記と多数の挿絵と注解を添える。


 
 この時代、ふぐや魚のこのしろは好んで食べられなかったという。

 フグは毒があったためだが、このしろにおいては「此の城」に通じるからだという。

 後にこのしろは、「こはだ」という名で食したという。

 







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「鸚鵡楼中記」 芝居の『仮名手本忠臣蔵』とは異なる内容が「鸚鵡楼中記」には日記として書かれている。

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「生類憐みの令と元禄政治」出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵)  生類憐みの令(五代将軍徳川綱吉)

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「元禄時代の江戸みやげ」 『新版 古郷帰の江戸噺(こきょうがえりのえどばなし)』出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵) 綱吉の頃

 『江戸時代の古文書を読む 享保時代』

 享保という時代  『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠  農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏  綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。

 徳川 宗春(とくがわ むねはる)   『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。

 徳川宗春が鯔背で人気があり、歌舞伎『傾城夫恋桜』にもなった。 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「御庭番の隠密活動」 深い雅海 元々御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだ際、将軍独自の情報蒐集機関として設置された。

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次の出頭」   評定所(ひょうじょうしょ)とは

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意知刺殺事件の真相」    出典 石河家文書『徳川林政史研究所所蔵』

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「随筆に見る江戸の風俗」    出典 『塵塚談』国立公文書内閣文庫所蔵

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『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意知刺殺事件の真相」    出典 石河家文書『徳川林政史研究所所蔵』

2019-08-17 | 読書全般(古典など以外の一般書)


 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意知刺殺事件の真相」    出典 石河家文書『徳川林政史研究所所蔵』







 田沼意知は、田沼意次の子



 吉良斬り付け事件の『忠臣蔵』や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』はあまりにも有名だが、田沼意知にもこういった事件があったとは。

 善左衛門が田沼意知に何箇所も深手を負わせ、善左衛門が奉行所に問いただされる。

 しかし数日後、善左衛門が亡くなった時点で切腹。

 当時はいかなる理由があるにせよ、傷をおった者の息が途絶えた時点で、斬り付けたものは切腹になったという。


 なお切腹は、歴史書に度々書かれているように、芝居と同様の所作が途中まで行われる。

 しかし実際には、探検ではなく、木刀や扇子が置かれて腹を切る仕草をした時点で検視が見届け、首を切ったという。

 善左衛門の場合は木刀が置かれ、上のように腹を切る仕草をした時点で検視が見届け、首を切ったのだと書かれていた。


 歌舞伎を思い浮かべながら読んだので、不謹慎ではあるが、物語として非常に楽しかった。

 ただ、善左衛門の斬り付けたるゆうのいかんん委せよ、死んだ時点で切腹を命じられたという史実は、忍びない思い出ある。








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「鸚鵡楼中記」 芝居の『仮名手本忠臣蔵』とは異なる内容が「鸚鵡楼中記」には日記として書かれている。

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「生類憐みの令と元禄政治」出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵)  生類憐みの令(五代将軍徳川綱吉)

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「元禄時代の江戸みやげ」 『新版 古郷帰の江戸噺(こきょうがえりのえどばなし)』出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵) 綱吉の頃

 『江戸時代の古文書を読む 享保時代』

 享保という時代  『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠  農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏  綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。

 徳川 宗春(とくがわ むねはる)   『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。

 徳川宗春が鯔背で人気があり、歌舞伎『傾城夫恋桜』にもなった。 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「御庭番の隠密活動」 深い雅海 元々御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだ際、将軍独自の情報蒐集機関として設置された。

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次の出頭」   評定所(ひょうじょうしょ)とは

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意知刺殺事件の真相」    出典 石河家文書『徳川林政史研究所所蔵』
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『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次の出頭」   評定所(ひょうじょうしょ)とは

2019-08-17 | 読書全般(古典など以外の一般書)


 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次の出頭」    評定所(ひょうじょうしょ)とは



 
 評定所の組織と機能

 
 田沼意次の評定所出産




 此の時代の暮らしが面白く書かれておた。

 芝居や文芸といったものも、此の時代斧多くき取り上げられ、流行ったという。


 芝居の『髪結新三』の初鰹売りのように、此の時代カツオ売りなども目立っていたという。

 初物を好む、江戸時代の鯔背な部分が記され、面白く読ませていただいた。






 評定所(ひょうじょうしょ)     ブリタニカ国際大百科事典

 幕府の最高司法裁決機関。鎌倉幕府では,嘉禄1 (1225) 年創設の評定衆の会議所をいい,執権や連署列席のもとに立法行政上の重要事項,特に民事訴訟を審理裁決した。
 建長1 (49) 年その下で裁判の審理にあたるべきものとして引付衆 (ひきつけしゅう) がおかれた。室町幕府でもこれを踏襲した。
 江戸幕府では,寛永 12 (1635) 年創設され,寺社,町,勘定の3奉行に相互関連する重要訴訟事項ならびに事情の錯雑して容易に裁決しがたい事項を裁判した。
 この評議は式日といわれ,毎月2,11,21日に開かれ,3奉行のほか老中,目付 1人が列席した。
 また支配違いの通常の訴訟評議は,立会日といわれ,3奉行および目付1人が列席した。


 評定所(ひょうじょうしょ)     大辞泉

1 鎌倉幕府で、評定衆が事務を取り扱った役所。
2 江戸幕府の置いた最高の裁判機関。老中・大目付・目付・三奉行などが事件の重要度に従って列席し合議した所。


  評定所(ひょうじょうしょ)    平凡社百科事典

(1)鎌倉・室町幕府の評定衆が合議をした場所。
(2)江戸幕府では1635年に設けられた最高の訴訟裁決機関。寺社奉行,町奉行,勘定奉行の3者と老中1名で構成。
   のちに大目付,目付,側用人,側衆江戸出府中の所司代,遠国奉行なども参列することがあった。三奉行のうち二つにまたがる問題,大名・旗本からの訴訟,農民の越訴(おっそ)などを裁断。
         →関連項目大岡忠相日記|御仕置例類集|御触書集成|山論|徳川家光|万石騒動|目安箱

 評定所(ひょうじょうしょ)     大辞林 第三版

 ① 鎌倉時代、評定衆が評定を行なった役所。
② 江戸幕府における最高司法機関。寺社・町・勘定の三奉行がそれぞれ独自に裁断しえない案件が三者および老中一名によって合議された。





 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「鸚鵡楼中記」 芝居の『仮名手本忠臣蔵』とは異なる内容が「鸚鵡楼中記」には日記として書かれている。

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「生類憐みの令と元禄政治」出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵)  生類憐みの令(五代将軍徳川綱吉)

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「元禄時代の江戸みやげ」 『新版 古郷帰の江戸噺(こきょうがえりのえどばなし)』出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵) 綱吉の頃

 『江戸時代の古文書を読む 享保時代』

 享保という時代  『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠  農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏  綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。

 徳川 宗春(とくがわ むねはる)   『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。

 徳川宗春が鯔背で人気があり、歌舞伎『傾城夫恋桜』にもなった。 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「御庭番の隠密活動」 深い雅海 元々御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだ際、将軍独自の情報蒐集機関として設置された。

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次の出頭」   評定所(ひょうじょうしょ)とは

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乱鳥徒然   台風が来るせいか昨日から眠くて眠くて仕方がない。うむうむ。なるほどなるほど、納得で〜す^^

2019-08-14 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 台風が来るせいか昨日から眠くて眠くて仕方がない。

 鮮やかなカラーの夢を見ながら、眠りこくっている。

 私の深層心理にはこういった事柄が見え隠れしているのかとほくそ笑む。

 無意識の意識。

 大学時代に遊びで読み続けた心理学関係の本の内容を思い出す。


 ネットで調べると台風が近づくと眠くなるかたの多いことに気づかされる。

 次のように書かれたページがあった。


     台風が近づいてくると周囲の気圧が下がり始めます。
     台風自体が低気圧でその中心が最大の低気圧になっています。
     そのため台風の中心が近くを通れば通るほど気圧が低下することになります。
     気圧が下がると必然的に、酸素濃度も下がります。
     当然、人が取り込む酸素量にも影響が出てきます。
     肺に取り込める酸素がわずかながら減るんですね。
     人が酸素を取り込めないと、脳にいきわたる酸素量が減り、眠くなったり、体がだるく感じたりするのです。
     (https://affi-convert.com/生活/台風がくると眠くなる、だるくなるのはなぜ?対/)



 なるほどなるほど、納得で〜す^^
 
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『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について

2019-08-14 | 読書全般(古典など以外の一般書)


 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次



『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』より「田沼意次と失脚」を繰り返し読み、概ね文意を把握できたような気がする。

 恥ずかしながら、『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』の第2章のように、何を書けばよいかがわからない。

 歴史は興味のある内容と興味に無い内容が二分され、お手上げの場合も多々あり。


 興味がなければ読まずともよいであろうに、今期は『江戸時代の古文書を読む』シリーズをできれば10冊読読もうと目標を立てているので、興味がなくとも読むことにした。

 あらら? それで大mPでしょうか???

 いつまで続くかわからないが、今のところは続けているので、まぁ、この調子でいいんでないかぇ?!


 この二日間で『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』の四話文と谷崎作品の映画をに作品見ようと考えていたのに、実際は『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』の第一生(1話)のみを読んだだけであった。

 万度も繰り返し読んだが、時間をかけた割には虚しい結果。

 これが自分の実力なのであろうと思う。(笑)


 理由は上だけでは無い。台風がきているせいか、はたまた寝不足が続いていたせいか、睡魔に襲われ、昨日の一日の大半を眠っていた。

 そして歌舞伎の舞台さながらの、色彩美形式美、オリジナルな舞台に出演し、一方客観的に眺めていた。

 つらつらと 楽しみながら、じわじわとにがり苦しむような、そんな夢を見つつ、眠り告っていた。



 

以下のデーターはウィキペディアより
『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」 関係として

 田沼 意次(たぬま おきつぐ)
 田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。
 遠江相良藩の初代藩主である。
 相良藩田沼家初代。



 出生
 享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。
 幼名は龍助。
 父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。
 吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1][要ページ番号]。
 父・意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれている。


 相良藩主時代
 元文2年(1737年)、従五位下・主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。
 寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。
 宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
 さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。
 安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
 順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった。


 田沼時代
 この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。
 悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する、などの政策を実施した。
 その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。
 しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。

 また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。
 意次は対策を打ち出すが、失敗して逆に事態を悪化させた。
 その中にあって、財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。

 このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。

 外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。

 天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

 その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
 長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった[注 2]。

 その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去した。享年70。





     
          田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
          白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
 



官途[編集]
享保19年(1734年) - 徳川家重の小姓となる。
元文2年(1737年) - 従五位下主殿頭に叙任。
延享4年(1747年) - 小姓組番頭格。
寛延元年(1748年)閏10月1日 - 小姓組番頭、奥勤兼務に異動。石高1400石加増。それまでは、小姓組番頭格奥勤。
宝暦元年(1751年)4月18日 - 御側御用取次側衆に異動。
宝暦5年(1755年) - 石高3000石加増。知行合計5000石になる。
宝暦8年(1758年) - 石高5000石加増。1万石の大名となる。評定所への出席を命じられ、美濃郡上一揆の審理に当たる。遠江相良に領地を与えられる。
宝暦10年(1760年) - 9代家重引退し、家治10代となる。意次御用取次留任。
宝暦12年(1762年) - 石高5000石加増され、合計1万5000石となる。
明和4年(1767年)7月1日 - 側用人に異動。従四位下に昇叙。石高5000石加増、合計2万石。遠江国相良2万石の領主となる。
明和6年(1769年)8月18日 - 老中格に異動し、側用人兼務。侍従兼任。石高5000石加増。
明和9年(1772年)1月15日 - 老中に異動。石高5000石加増、合計3万石。11月18日、安永元年。この年諸国で凶作。
安永3年(1774年)8月 - 杉田玄白ら『解体新書』刊行。
安永6年(1777年)4月21日 - 石高7000石加増。
天明元年(1781年)4月2日 - 元年。7月15日、石高1万石加増。合計4万7000石。12月15日、意知、奏者番になる。
天明5年(1785年)1月21日 - 石高1万石加増。合計石高5万7000石となる。
天明6年(1786年)8月27日 - 老中依願御役御免。石高2万石召上げ。雁之間詰。
天明7年(1787年)10月2日 - 石高3万7000石召上げ。蟄居となる。

 
 


 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「鸚鵡楼中記」 芝居の『仮名手本忠臣蔵』とは異なる内容が「鸚鵡楼中記」には日記として書かれている。

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「生類憐みの令と元禄政治」出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵)  生類憐みの令(五代将軍徳川綱吉)

 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』「元禄時代の江戸みやげ」 『新版 古郷帰の江戸噺(こきょうがえりのえどばなし)』出典・仰出之留(国立公文書館内閣文庫所蔵) 綱吉の頃

 『江戸時代の古文書を読む 享保時代』

 享保という時代  『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠  農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏  綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。

 徳川 宗春(とくがわ むねはる)   『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。

 徳川宗春が鯔背で人気があり、歌舞伎『傾城夫恋桜』にもなった。 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」

 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「御庭番の隠密活動」 深い雅海 元々御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだ際、将軍独自の情報蒐集機関として設置された。

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』

 『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について




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乱鳥徒然   よっしゃ↑

2019-08-13 | 乱鳥徒然 Rancho's room.
      鬼ヶ城   熊野市木本町






 台風か〜〜



 よっしゃ↑
 今日明日は読書三昧映画三昧と決め込んで
 この二日で『古文書云々 田沼時代』と
 谷崎潤一郎の録画済み映画、残り二作品を見よう!


 今日も楽しい一日の封切りだね。

 
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映画『神と人との間』 監督・脚本:内田英治 谷崎潤一郎原案  4,5★/5   2018年 渋川清彦、戸次重幸、内田慈

2019-08-12 | 映画

 
     映画『神と人との間』 監督・脚本:内田英治 谷崎潤一郎原案  4,5★/5   2018年 渋川清彦、戸次重幸、内田慈




 文豪・谷崎潤一郎原案の映画 『神と人との間』を見ました。

 話の展開が面白く、静かに小説を楽しんでいるような映画です。

 それでいて演技のお上手な役者さんたちばかりで、上質の淡々と進む舞台を見ているようでした。



 主役の三人がそれぞれに静かで深い印象的な演じ方をしてくださいました。

 渋川清彦さん、戸次重幸さん、内田慈さんのそれぞれの役者さんに共感し反発し、感情移入しました。

 チーム・ナックスの中でも特に好きな戸次重幸さん。昔から好きな王子(役)がご出演されているとは知りませんでしたので、喜びはひとしおでした。

 そして渋川清彦さんの演技の仕方にも見入ってしまい、今回役者さんとして、好きになってしまいました。



 この映画の解説では、「親友同士の男性2人が、ともに愛する同一の女性をめぐって奇妙な三角関係を繰り広げるさまをコミカルに描いた文芸エロス映画」と記されています。

 しかし、ラストの「契約書」と「子供の喜び」がこの作品のキーポイントだと言っても過言でがありません。

 この映画はネタバレしたくないので多くを語ることは差し控えますが、単純に「奇妙な三角関係」と云った単純な言葉ではこの作品の本質は語れないと言ってよいでしょう。


         私はこの映画は好きです。







 下のデーターはwowow公式 HP 
 文豪・谷崎潤一郎の同名の問題作をもとに、親友同士の男性2人が、ともに愛する同一の女性をめぐって奇妙な三角関係を繰り広げる
さまをコミカルに描いた文芸エロス映画。

 近代日本文学の文豪・谷崎潤一郎が、最初の妻・千代をめぐって、彼の親友であった作家・佐藤春夫との間で「小田原事件」と呼ばれる恋愛騒動を起こし、最終的に、谷崎と離婚した千代が佐藤と再婚することで事態が決着した、いわゆる「細君譲渡事件」。
 この「小田原事件」を題材に谷崎が自ら綴った問題作「神と人との間」を、「獣道」の内田英治監督が現代風に翻案して映画化した、「TANIZAKI TRIBUTE」企画のうちの1本。
 なんとも奇妙な三角関係をコミカルに演じるのは、渋川清彦、戸次重幸、内田慈。



 文豪・谷崎潤一郎の同名の問題作をもとに、親友同士の男性2人が、ともに愛する同一の女性をめぐって奇妙な三角関係を繰り広げるさまをコミカルに描いた文芸エロス映画。
 開業医の穂積は、熱帯魚を売る店で働く女性・朝子に恋していたが、親友の売れない漫画家・添田も彼女に恋していることを知って、自らは身を引くことを決意。
 かくして朝子は、穂積に後ろ髪を引かれつつ、添田と結婚する。ところが、結婚した途端に添田はすっかりサディストに変貌し、愛人を作って朝子を虐待し、穂積にも朝子と不倫をするよう、けしかける始末。
 穂積は、添田にコケにされながらも、朝子をプラトニックに想い続ける。



 下のデーターはウィキペディア
 谷崎潤一郎の女性関係   
 1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという「小田原事件」が起きた(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。
 また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)。

 結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。
 このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった。

 翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた。

 松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。
 しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない。




 以下のデーターはwowow公式 HP
作品データ
制作年/2018
制作国/日本
内容時間/90分



出演
役名 役者名
穂積 渋川清彦
添田 戸次重幸
朝子 内田慈
美佳 山田キヌヲ
幹子 萬歳光恵


監督
内田英治

原案
谷崎潤一郎

脚本
内田英治

撮影
伊藤麻樹
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乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 15  酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)について

2019-08-12 | 乱鳥徒然 Rancho's room.
  フランス国立図書館本『酒飯論絵巻』第3段末尾より


   『酒飯論絵巻』



 『酒飯論絵巻』(日本絵画の転換期 「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へ )並木誠士 著が面白かったので、今度は『酒飯論絵巻』について少し見てみることにした。

『酒飯論絵巻』は『大黒舞』そのた多くのようにチェスター・ライブラリィ所蔵のものが出版されているそうだが、私の知っている限りでは見たことがない。

 どこかで調べて、読んでみたいと思う。
 




                        追記     
                        http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542602/1  
                        国会図書館 『酒飯論』デジタル公開を見つけました。

  


  酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)

 酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)は、16世紀に制作されたと言われる日本の絵巻。

『下戸上戸絵詞』『三論絵詞』『酒食論』『下戸上戸之巻』とも呼ばれる。

 1巻、詞書と絵が各4段。

 酒好きの男と、下戸でご飯好きの男、両方適度に嗜む男の3人がそれぞれの持論を展開するという構成で描かれている。

 調理から配膳、飲食の様子が詳細に描かれており、当時の食文化を知る貴重な資料となっている。



  酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき) 概要
 最も原本に近い、もしくは原本そのものの可能性がある文化庁本の大きさは、縦30.7×長さ1416cm。

 狩野元信の筆になるものと、土佐光元によるものがあり、その模写本や異本が多数存在する。

 主人公の三人は、酒好きの公家・造酒正糟屋朝臣長持(みきのじょうかすやあそんながもち)、飯好きの僧侶・飯室律師好飯(いいむろりっしこうはん)、中庸派の武士・中左衛門大夫中原仲成(ちゅうざえもんだゆうなかはらなかなり)である。

 4部構成になっており、

    第一段に三人の紹介、

    第二段では酒の徳、

    第三段では飯やおかず、茶の面白さ、

    第四段ではどちらもほどほどがよいと語られる。

 長持は念仏宗、好飯は法華宗、仲成は天台宗のそれぞれ宗徒であり、表向きは飲食について語りながら、天台宗の中道観の優位性を説いている。

 また、公家と僧侶の争いを武士が仲裁するのは、室町時代の権力構造を反映しているといえる。


 2009年から多分野に渡る研究者の共同研究の対象となり、2012年に研究報告がなされた。




 

 
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 1 「引歌」と「本歌取り」
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 2 「影印」と「印影」、「影印本」(景印本、影印)と「覆刻本」
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 3  丈(じょう )と 丈(たけ)
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 4 「草紙」と「草子」と「双紙」と「冊子」
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5 「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 6 「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 7  「文化功労者」と「文化勲章」 
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 8 「気功」と「気」の違い、及び「気功」と「気」の中国と日本の違い 
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 9 「忖度」江戸時代すでに言葉の変化が認められた事を『玉あられ』(本居宣長著)で再確認した。
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 10  弥生(日本に置ける3月)、暮の春、建辰月、月宿、夢見月
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 11  東大寺 修二会(お水取り)について再度確認しておきたい。
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 12  一旦停止の位置は如何様であろうとも、停止線手前で止まるべし
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 13 「全集とは」                       
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 14 「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」、「しゃく‐ぶん【釈文】」と「しゃく‐もん【釈文】」の違い
  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 15  酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)について


 


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コクーン歌舞伎「東海道四谷怪談 北番」 2006年 東京  シアターコクーン 中村勘三郎他、錚々たる顔ぶれの役者さんたち

2019-08-12 | TVで 歌舞伎・能楽



          コクーン歌舞伎「東海道四谷怪談 北番」 2006年 東京  シアターコクーン 中村勘三郎他、錚々たる顔ぶれの役者さんたち






 コクーン歌舞伎「東海道四谷怪談 北番」をみる。

 いや、みることができてよかった。


 『東海道四谷怪談 南番』は歌舞伎チャンネルや衛星劇場で繰り返し見て居たが、「東海道四谷怪談 北番」は未だみる機会に恵まれてなかった。

 北番では、岩や岩の怨念の怖さの強調というよりは、江戸時代の実在人物の名を変えパロディ化した内容。

 江戸時代は絵師にしても芝居にしても、御上批判や実際を表現することは禁止されて居たので、絵師は猫などの擬人化を試みたり、芝居では「東海道四谷怪談 北番」のように名を変えパロディ化したりされて居た。

 しかし当時の人は元を念頭に、浮世絵や草子などの読み物、芝居を楽しんで居たことになる。

 故に「四谷怪談 」は「別名(?)忠臣蔵」とも言われていたそうだ。


『東海道四谷怪談 南番』で気になって居た、蚊帳。

 伊右衛門は子供の蚊帳まで取り上げて持って行く。

 もっとも金持ちの孫娘との婚礼を控え、大枚をもらっているので、金欲しさではない。

 伊右衛門は磐音の愛情がないことを悟らせ、釘をさすためにも着物をはぎ、吊るした蚊帳まで剥ぎ取って行くのである。

 とはいえ、なぜ蚊帳なのか。

 愛情がないという表現の一つとして子供が蚊に刺されて模様ので蚊帳を剥ぎ取って行く、実はそれだけではなさそうである。


 この蚊帳、ベースは青深緑で、策は真っ赤である。

 この夏に滋賀県の近江八幡を訪れた時に、旧家の資料館で見た。

 今現在の西川布団の下になる お店(おたな)跡で、当時の西川(布団)ブランドの蚊帳が展示されて居た。

 それによく似た蚊帳を舞台では使われているのである。

 落ちぶれたとはいえ、武士である伊右衛門の家では、元はブランド品である西川の蚊帳を購入し使うことができたのであると考えられる。

 ブランド品である蚊帳は、衣服と同様、質草に入れることができたのであろうと推定する。

 お乞食になった武士でも、武士のプライドもあり、剣菱模様の入った菰を好んで使用したと何かに書かれて居た。

 菰を見れば武士下がりか、一般民家がわかるという。

 そしてこんなにも落ちぶれた家にも、当時の流行りの蚊帳がかかって居たのだとすれば、芝居も事細かに観察に値する面白みがあると考えられる。

 
 コクーン歌舞伎「東海道四谷怪談 北番」にご出演されていらっしゃる全ての役者さんたちが熱演であった。

 中村勘三郎様がご健在の頃の舞台で、懐かしく目頭が熱くなった。

「東海道四谷怪談 北番」を見て、改めて素晴らしい役者さんだったんだと感じた。

 中村勘三郎様の出演者の士気を高め、まとめる力、及び、舞台を作り上げるという情熱は半端がない。

 会場中の観客の熱気が伝わる舞台であった。


 東京都関西との舞台を始め芸術に対する温度差を感じる。

 学生時代、関西を離れることは考えもしなかった私であるが、東京の代打国行くことになって居たら、今はどのような趣味を持ちどのように楽しんでいるのであろうかと、時々ふと考えることがある。

「東海道四谷怪談 北番」もそんなたわいないことをふと思わせる舞台であった。



 

     

    

 以下のデーターはwowow公式HP ▼

 絶大なる人気作「四谷怪談」を台本、配役、演出などの異なる新作「北番」として上演し、読売演劇大賞を受賞するなど旋風を巻き起こした伝説のコクーン歌舞伎第7弾。



 コクーン歌舞伎の第7弾「東海道四谷怪談」は、1994年に上演された「四谷怪談」をベースに串田和義が新たな演出を施した南番と、シャープな切り口で欲望の中でうごめく人間の奥深さを描いた北番の2バージョンからなり、その北番を放送する。中村勘三郎が襲名後初公演の舞台。
【あらすじ】
 塩冶浪士の民谷伊右衛門(中村橋之助 現:芝翫)は、同じ浪士の四谷左門に娘・お岩(中村勘三郎)との復縁を迫るが、伊右衛門の公金横領という過去を知っている左門は復縁を許さない。
 一方、お岩の妹・お袖は生活のために按摩宅悦の地獄宿に勤めているが、そこで夫・佐藤与茂七と再会する。しかし、お袖に横恋慕する直助権兵衛は与茂七を、伊右衛門は左門をそれぞれ殺してしまう。
 お岩は伊右衛門と復縁、お袖は直助と仮の夫婦となる。子をなしたお岩は、産後の肥立ちが悪く床に伏せってしまい、そんなお岩を次第に疎んじた伊右衛門は、離縁するためにある策略に出る。



2006年4月18日、20日/東京 Bunkamuraシアターコクーン
出演
役名 役者名
お岩・直助権兵衛 中村勘三郎
佐藤与茂七・小仏小平 中村扇雀
民谷伊右衛門・小汐田又之丞 中村芝翫
四谷左門・仏孫兵衛 坂東弥十郎
お袖 中村七之助
秋山長兵衛 片岡亀蔵
お梅 坂東新悟
伊藤喜兵衛・按摩宅悦・お熊 笹野高史
スタッフ
演出・美術
串田和美
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『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』 「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へ  並木誠士 著  2017年  4,8★/5

2019-08-12 | 読書全般(古典など以外の一般書)

      『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へ  並木誠士 著  2017年  4,8★



 某公機関の書棚で、酒飯論絵巻という私の知らない絵巻物の名に惹かれ、『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』を手にとってみる。

『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』をパラパラと開き、インデックスをみ、最初と最後を読み初めて本書をお借りした。

『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』の中には、実際に読んだ絵巻物や博物館や寺で見たものが多く載せられており、多少絵巻物に関心のある私にとっては楽しい本である。

 読んだものや見たものを思い返しながら、ウンウンと頷き、早々と声に出しながら読み進める。

 この本は言葉がすんなりとしていてひとかたまりを人忌避、あるいはブレス1,2回で読みやすく、音読をしながら楽しんだ。

 
 著者 並木誠士氏は徳川美術館学芸員をなさっておられたという。

 徳川美術館は昨年春に楽しんだ。

 また、京都大学助手や京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授をなさっておられたという。

 京都生まれの私にとっては、とても親しみやすい感じがする。

 こういった先生の講義を聞いて見たかったなと感じる。

 いやいや、まだお若いので、朝日カルチャーセンターなどでは聞けるのかもしれないが。


 いちいち納得できる『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』は、家に居ながらにして講義を聞いているようで、二日に分けて一気に読めた。

 他にも旅行書と古文書関係一冊を読み、テレビで歌舞伎を見て居たので、子に二日間も読書三昧、舞台三昧であった。


 脇道はさておき、本書を読み心に残った部分としては、

   酒飯論絵巻は「絵巻の時代」と「風俗画の時代」という二つの時代が交替する、ちょうど「潮目」に当たる作品 (P.155)

ということであった。

   絵巻が表現形式として中心的位置を占めて居た時期は、宮中のロマンスや合戦、高僧の生涯などが、まず「文字」化され、その後に絵巻として鑑賞されるようになった。

   しかし、挿図的な位置であった絵巻の「絵」は、やがて詞書から離れて汁つすることになる。

   それは同時に、屏風という新しい絵画の確率で亜もあった。

   そしてそこで人々の目を楽しませたのは、自分たちのどう時代の人々の様子、つまり風俗であった。

   風俗画の成立である。

   その転換期にあった作品こそが『酒飯論絵巻』であった。    
   (P.156)


『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へを読み進める間中、楽しく過ごさせていただいた。

 時間を見つけて、所蔵の絵巻物全集の読みを再開したいと思う。

 また時々は美術史を読むのも良いものだと感じた。

 


 






 
 






 『日本絵画の転換期 酒飯論絵巻』「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へ

 食と酒を楽しむ姿を赤裸々に描いた『酒飯論絵巻』は、日本美術、それを支える社会が大きく変わるターニングポイントを映している。

 著者 並木 誠士 著

 出版年月日 2017/08/04

 判型・ページ数 菊判変・192ページ

 定価 本体3,000円+税



プロローグ――日本絵画史の見直し・試論――

第Ⅰ章 《酒飯論絵巻》の概要

第Ⅱ章 絵巻の時代
 Ⅱ―1 絵巻とは?
 Ⅱ―2 やまと絵と四大絵巻
 Ⅱ―3 絵巻の諸相
 Ⅱ―4 絵解と画中詞
 Ⅱ―5 小括――「絵巻の時代」の終焉

第Ⅲ章 風俗画の時代
 Ⅲ―1 「風俗」を描くこと
 Ⅲ―2 新しい画題の成立――洛中洛外図
 Ⅲ―3 近世初期風俗画の展開
 Ⅲ―4 江戸時代――浮世絵への展開
 Ⅲ―5 小括――「風俗画の時代」の幕開け

第Ⅳ章 ふたたび、《酒飯論絵巻》
 Ⅳ―1 「酒飯論絵巻」研究史
 Ⅳ―2 再考:《酒飯論絵巻》の作者と制作年代
 Ⅳ―3 《酒飯論絵巻》の特質

エピローグ――《酒飯論絵巻》の絵画史的位置――


 著者について
 京都工芸繊維大学教授

 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
 並木/誠士
 1955年東京都生。徳川美術館学芸員、京都大学助手、京都造形芸術大学助教授を経て、京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授、同大学美術工芸資料館長
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鬼ヶ城   熊野市木本町  (15景)

2019-08-11 | お出かけ


    鬼ヶ城   熊野市木本町  (15景)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 



 隆起と風化と波の浸食によって生じた自然の芸術で、熊野灘に面して延々1Km続く、国の名勝・天然記念物。
 山頂には、戦国時代の城跡があり、熊野古道・松本峠と連結するハイキングコースが整備されています。
 鬼の見晴台といわれる展望台からは、熊野灘が一望できます。


 鬼ヶ城(おにがじょう)は三重県熊野市木本町にある海岸景勝地。国の名勝(「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」〈くまののおにがじょう つけたり ししいわ〉)の一部である。
 熊野灘の荒波に削られた大小無数の海食洞が、地震による隆起によって階段上に並び、熊野灘に面して約1km続いている。
 志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、これより南はなだらかな砂浜の海岸(七里御浜)へと変わる。
 東口から山頂へ通じるハイキングコースには桜が植えられており、春には4種類の桜が次から次へと開花して長期間花見が楽しめる。

 1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定された後、1958年(昭和33年)に獅子巌が追加指定され、名勝および天然記念物「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」となった。
 ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の一部[2]。また、日本百景に選定されている。


 坂上田村麻呂伝説
 坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したという伝説。


 鬼ヶ城本城
 室町時代(1523年頃)に有馬忠親が隠居城として山頂に築城した日本の城。
 有馬氏はのちに堀内氏によって滅ぼされる。堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めた。
 山頂と熊野古道の松本峠を結ぶハイキングコースには3本の掘切が今でも残っている。

 (ウィキペディア)



 住所
 〒519-4323 熊野市木本町
 電話番号
 0597-89-4111(熊野市観光スポーツ交流課)
 公式URL
 http://onigajyo.jp/
 公共交通機関でのアクセス
 ・JR紀勢本線「熊野市駅」から「大又大久保行き」バス約5分「鬼ヶ城東口」下車すぐ
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乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 14 「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」の違いについて。又、「しゃく‐ぶん【釈文】」と「しゃく‐もん【釈文】」の違い

2019-08-10 | ことのは
 写真は ヤズドコイン博物館
 ヤズドはゾロアスター教の鳥葬お重なう所が多くあります。
 バザールや民家の屋根はつながっているところも多く、屋根の上でお散歩ができます。
 また、ラクダを食べる地方です。煮込んだラクダのスープは濃厚で、肉が柔らかく、美味しいです。







  乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 14 「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」の違いについて。又、「しゃく‐ぶん【釈文】」と「しゃく‐もん【釈文】」の違い
  


「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」の違いについて

  今一度「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」の違いについて再確認ができ、間違いではなかったことがわかったので、よしとしよう.

  
     1「しゃく‐ぶん【釈文】」と「しゃく‐もん【釈文】」では意味が異なる。

     2「訓読」は漢文を日本語の文章として読み直すた めにする手法。 白文に訓点や送りがなをカタカナでつけたもの。
      「書き下し文」は漢字仮名交じりの文語文に書き改めたもの。





 
 





「釈文」と「書き下し文」について、今一度確認しておこう。


 先日某箇所で、「釈文」の事を「書き下し文」と書かれていた資料に出会った。

 また、「書き下し文」の事は「文意」とあったので、自分自身の認識の間違いかと思い、調べることにした。

 
『大辞林 第三版』によれば「釈文」(しゃくぶん)とは次のように書かれている。

 ① 仏教の経論を解釈した文句。
 ② 読みにくい筆跡や漢文を、読みやすい字体・文体に直したもの。しゃくぶん。 「金石-」



 他に『精選版 日本国語大辞典』の解説は次のように記されている。



しゃく‐ぶん【釈文】〘名〙
 ① 篆文(てんぶん)、または草行体の文を通行の文字に書き改めること。また、そのもの。しゃくもん。
 ※本朝無題詩(1162‐64頃)一〇・冬日遊円融寺〈輔仁親王〉「只有上人頭似レ雪 釈文誰不レ決二疑関一」
 ② ⇒しゃくもん(釈文)


しゃく‐もん【釈文】〘名〙
 ① 仏語。仏教の経論を解釈した文句。
 ※法華義疏(7C前)一「釈文亦微細煩広。但愚心難レ及」
 ※幸若・笛巻(室町末‐近世初)「故に釈文にも、荊楊往復途将万里ととかれたり」
 ② ⇒しゃくぶん(釈文)



 要するに 「しゃく‐ぶん【釈文】」と「しゃく‐もん【釈文】」では意味が異なる。

 古文書や古典などの古い文字を書き起こす事を、「しゃく‐ぶん【釈文】」
という。  

 良かった。自分の認識は間違ってなかったと、胸をなでおろす。



 では、「書き下し文」ではどうか。
 
「書き下し文」は『三省堂 大辞林 』は次のように書かれている、

 「書き下し文」
 漢文を日本語として読み下し,日本語の語順に合わせて,漢字仮名交じりで書き改めた文。読み下し文。漢文訓読文。


 よしよし、これも間違ってなかった。


 では、「訓読文」となると、「書き下し文」とどう違うのか。


「訓読文」はウィキペディアによれば、「漢文訓読(かんぶんくんどく)」で考える場合、次の様に記されている。

「漢文訓読(かんぶんくんどく)」
 漢文訓読(かんぶんくんどく)とは、文語体中国語の文章である漢文を文体をそのままとして、符号(返り点)・送り仮名などを付けることによって日本語の語順で読解できるようにすること。



「訓読」と「書き下し文」の違いはようは次の様なこととなる。

    「訓読」は漢文を日本語の文章として読み直すた めにする手法。 白文に訓点や送りがなをカタカナでつけたもの。

    「書き下し文」は漢字仮名交じりの文語文に書き改めたもの。




 昨日今日の二日間、要らぬところで道草を食ってしまった。

 今一度「釈文」と「書き下し文」と「訓読文」の違いについて再確認ができ、間違いではなかったことがわかったので、よしとしよう。




 



 
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