ご挨拶
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
第13章「よいケアをしていくために介護者は自分のためにも目を向けよう」より(青字はまるごと引用部分)
●よいケアを続けていくには介護者の必要性が満たされることが重要。
必要性とは「息抜き、リフレッシュ、変化」、「まったく違うことをする時間をもつこと」。
「あなたは聖人君主でも殉教者でもなく、タダの人間なのですから」
息抜きが出来るように積極的にサービスを活用、それこそ、「ネコの手でも借りよう」みたいなコト。ただ、現実的には「借りたいけど…」って「けど」がつくし、借りられる範囲というのは案外狭くもある。たとえば親の兄弟も高齢、自分と同年代の従弟や友人たちは仕事や子育て、みんな家庭があって忙しい。学生時代のように自由に動けるわけじゃない。
結果としては、介護保険サービスの範囲内で…ということになる。(それがあるだけマシってことかな)
本では「喜んで貸してくれる人はあなたが思うより多いかも知れません」…ってある。そういうこともあり得るだけろうなーとはおもうけど。
●介護者が持つやっかいな感情。怒り、不快、罪悪感、孤独、恐怖、羨望(これは自分の知り合いはこんな経験をしないですんでいる…なんておもった時)そして絶望。
これ、全部味わっている。きっと介護者はみんなそう。
「このような感情は全く自然で人間らしいものです。こんな気持ちになることがあっても、あたなはまったく悪くありません。その気持ちをそのまま受け止めてください。ただし、その気持ちにしがみつくのではなく、そのまま過ぎ行くに任せてください。その気持ちを否定したり、締めだそうとすることは、あなた自身にもまわりのためにもよくありません」
「悪くありません」と断言してくれる本は珍しい。むしろ優しく介護出来ないとダメ、それは虐待、そんな内容が多い。
日本人は美談がスキ。(と思う。外国はワカラナイ)
「あれこれあったけど、愛情あふれる介護をしましたよ」って本を読んで、「エライですね」「ステキですね」って言いたいみたい。
きっと、書く方も、介護が終わって振り返るケースが多いから、やはり身内への情が先にたって、優しい回顧録になるんだろう。
今の私は「介護なんて大キライ」って本を書きたいけど、介護終了後には、「それでも母は母でした」みたいな本を書きたくなるのかもしれない。
●意志に反して介護をするハメになった時、被介護者との間に対立があったり、本当は愛情を感じてない場合は、そうでない場合より介護はきつくなる。
そんな時も「自分に正直に」「否定的な感情のあることを認めてください」
否定的なものを乗り越えよい介護か出来るかもしれないとも、述べられているけれど、
「愛情や自発的に介護を引き受けた人たちに比べ、あなたはもっと専門的な手助けと息抜きが必要です」 とも書いてある。こっちのほうが多分現実的だろう。
この本では、支援というのはしつこく頼んではじめて得られる…と書いてある。
そのために医師にもケアスタッフに対しても自己主張することも必要。
確かに、聞かなかったために知らないまま通り過ぎるこがある。
専門家にとっては当たり前すぎて説明がなく、利用者側は知識や情報不足から質問することさえ思い浮かばない。私も以前、後になって「(病院に)聞けば教えてくれたはず」と保健師に言われたことがある。
日本人的発想として、あまり強く出てうるさいと思われたらマイナス…というのもあり、微妙…言い方一つでしょうか。
でも、言い過ぎると「じゃ、連れて帰りますか」と言われるのも現実だ。
…いとうことで四回目でした。あと一回おつきあいください。
パーソンセンタードケア本の三回目デス。
第10章「施設に入るときにきをつけてほしいこと」より (青文字はそのまま引用)
例えば身体的な介護の場合、治療や介護技術の面で自宅ではムリという判断がなされやすいけれど、認知症の場合、
「そう単純ではありません。なぜなら施設に入れるのは介護者の必要性によることが大きいかもしれないからです」
いつか施設処置という日を迎えるのだろうと考えるとき、体が健康な母を思うと、決断のタイミングは何?と思う。それは母の意向でもなく、治療のためでもなく、きっと、私の限界だと思うから複雑な心境。
その時がきたのなら…
「自分自身とあなたが介護する人にどうぞ正直になってください。あなたは罪悪感を覚えるかも知れませんが、あなたの望みも決断のさいに考慮しなければ、罪悪感はかえってひどくなってしまうのです」
そして、必要になる前の情報集め。訪問。このときにチェックすべきポイントが13載っている。長いので省略(^^ゞ(例えば、空間は創造的に使われているか?それとも壁にそってイスがならべられているだけ?…とか、居室には想い出の品が飾られているか?などなど)
たくさん質問してノートをとろう。それを嫌がるような施設は×。
この本では、施設に入ることを話合い、本人の心配事に対応し、安心させ、支えるように、そして、荷物のとりまとめなどに本人が関われるように…と書いてある。
コレに関しては、まるで見当もつきません。そんなことが可能なのか……。
いまでさえ、母に妹などと思われているので、離れることでまったく忘れられるのでは…という不安があlります。(逆に完全に忘れられた方が気楽なのかもしれないけど)
「たとえ相手があなたのことを誰だか分からなくなったり、名前を忘れてしまっても、あなたが自分にとって特別な人だということは分かっているのです。たとえあなたにそうと伝えることができなくても、あなたが訪ねて来てくれることは相手の心の奥に響くものなのです」
ホントにそうかな~そうなのかな~~…。