がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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尚巴志の曾祖父、屋蔵大主の墓

2014年03月04日 | ・琉球史散策/グスク時代
 
 伊平屋島にある、屋蔵大主のお墓「屋蔵墓」。
屋蔵大主は尚巴志の曾じいちゃん。
 
屋蔵大主をモチーフにした現代版組踊もあるので
名前はもうお馴染でしょうか。
 
ちなみに屋蔵大主は元々伊平屋の人ではなく、
南山の流れだという伝承があります。

屋蔵大主の父ちゃんが高嶺城(=南山グスク)関係の按司((上)与座按司)で、
兄(叔父)に殺されたので、屋蔵大主は伊平屋に逃れてきたとかなんとか…
 
 
で、伊平屋の我喜屋集落の上里に住み、
八つの藏を持つ篤農家として繁栄したと言われています。
 
でも、結構若死にしてるっぽい?
(長男の鮫川大主が16歳の時に死亡してるらしいデス)
 
 
参/『月代の神々-尚思紹王統・門中の世系図-』(當間荘平著/1985)
 
 
屋蔵墓は通称ヤグラ海岸と言われている
海岸沿いにありました。

今は整備されてすぐに行くことができますが
前までは海岸の岩場を行く感じで
大変だったようです
 
 
 
ヤグラ海岸です。
 
 
 
お墓から振り返るとこう。
 
すぐ海!
 
波がザッパーン
 
真正面から朝日を浴びて。
 
 
墓前の石碑。
 
ところで伊平屋の博物館に、
この石碑は勝手に建てられたものだ!けしからん!
と糾弾する写真付きの掲示物がありました。
 
第一尚氏王統の陵墓に石碑を建てた
「月代宮奉参会」(第一尚氏の子孫たちの組織)ですが、
これら一連の石碑建立計画の細かい経緯をまとめたものが
『月代の神々-尚思紹王統・門中の世系図-』(當間荘平著/1985)
写真入りで載っていました。
屋蔵墓に関しては伊平屋村とのやりとりも。
(石碑建立は認められたが墓の調査改修は断られたとか)
 
ちなみにこの本の出版は石碑建立をしてじきの昭和60年(1985年)。
もう30年近くも前です。
 
博物館が「勝手に建てられた」と書いていた年代(確か90年代後半)とは
大きな開きがあり、矛盾しています…。
 
 
 
とりあえず、この本を読む限りでは「勝手に」ではないデスねー。
(他の陵墓碑もそうですが)
 
その時に立てた石碑と、今ある石碑が違うと言うのであれば
アレですけど…。

本に載ってたモノを見る限りは
同じように思えるんだけどな? 
 
なんかいざこざでもあったんですかね… (´_`;)
 
 
 
結構、博物館の展示パネルの文章、
バサバサしてる感じだったしな…(^_^;

サバサバじゃなくてバサバサ。証拠のない伝承はバッサリ一刀両断!的な(^^;)
いや、まぁそれでもいいんだけど、否定的なトコには赤線引いてるとかでちょっとキツイ印象でした…;
 
 
 
屋蔵大主、以前ツアーのパネル用に描きました。
これは採用版とは別のスケッチですが再掲載。
採用全身カラーverは、
伊平屋ちむドンキッズのツアーに参加していただくか、
『琉球戦国列伝』のコラムで☆
 
 
 

ちなみに伊平屋に行ったのは最近じゃなくてちょっと前。
舞台とは関係なし訪問です(^^;

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