学校の先生がこんな感じだったらいいよね、という話を
どこかの掲示板で見かけたので
図書館で借りてみました。
『けっぱり先生』
著:山口 瞳
新潮社、昭和47年(1972年)
新潮文庫、1975年
私立の小中高大学一貫校を経営する 名物校長
猪俣先生、通称「けっぱり先生」を取材に行く
新聞記者 宮川氏の視点から描かれた小説。
取材のきっかけは、なんと 卒業式に
「仰げば尊し」を歌わない学校がある、と聞いたから。
けっぱり先生は、熱血で暖かい人柄、先生としても立派。
そして即断即決の リーダータイプの経営者でもあります。
そのけっぱり先生を慕って、学園には
熱意ある先生達が集い、薄給ながらも
学校近くにある社宅で なにかあると集い、お酒を飲みながら
心の通い合った密な人間関係をつくっています。
この感じ、なつかしく、あたたかい。
1972年と言えば、大阪万博が一段落し、オイルショックが来る直前。
首都圏移転の筑波学園都市構想が煮詰まりつつある頃でもあります。
日本が、まだ、いい時代だったころ。
会話中心の文体は、日本語が美しかった頃の
礼儀正しさや、あるいは、言いにくいことをも親しい間柄では
上手にずけずけと言える、日本語の語彙の豊富さ、
コミュニケーションのお手本としての読み方が
ある意味、出来るかも知れません。
一番、はっとした箇所、引用致します。

*******
「宮川さん、私は、中国大陸で三年間も過ごしたんですよ。日本に帰りたくて仕方がなかった。しかし、それは考えるだけで不可能なことだったんです。絶望的な状態でした。ですけれどね、もし、日本に帰れたら、と思いましたよ。もし、生きて日本に帰ることができたら、大和の古寺を訪れたい。毎日、そう思っていました。せつないくらいに」
「……………」
「歴史のなかに自分の生命を没入して、たとえば三笠山でもいいんですけれど、春の日に、何も考えずに寝ころんでみたいと思っていましたよ。外地に何年間も暮らすと、そういう気分になるんですよ。これは、経験がないとわからないことですが」
「わかりますよ」
玉井も、しんみりとした口調で言った。
「大和・京洛を旅してみたいと切実に思いましたね。そうなんですよ、玉井君もやっとわかてきたんですよ。歴史というものがね、学問でなくて、体で分かってくるんですよ。それが本当の学問なんですけれどね」
猪俣は話を続けた。
「やっとわかってきたというのは、人間らしくなったってことですよ。教師でなくて人間になってきたんですなあ。それが嬉しくて……」
*******
(注:玉井は教師のひとり、太字は猫紫紺の手による)
まぁ、けっぱり先生のお言葉は、日本人の直感に基づいていて
正直いって時代を感じる論理でもあるのだけれど・・。
日本人の、心のありようを示した言葉だと思えてなりません。

ほかにも、気になる生徒が登場したり
学園紛争が起こったりと、エピソードは満載です。
そんな中で、教育担当記者の宮川氏、けっぱり先生、
学園に勤める先生達の視点から、
当時の教育問題が、切々と、綴られています。
・・・これが、現代の問題と驚くほど共通しているの!!
学歴主義、上級校への試験対策としての学園でいいのか、
高校は高校の、中学は中学での勉強の仕方があるのではないか、
小学校は学校が楽しければいい、宿題はいらないから放課後は遊んで、ランドセルは採用しない。
などなど、教育のあり方の考察が盛りだくさんです。
教育をよくしようという情熱があふれています!
また、PTAの存在も無視できません。
個人的な利益を求め、学校へ横車を押しつけに来る圧力団体として
描かれています。作中に出てくるPTA婦人の、物の見方のくだらなさといったら!
そしてPTA解散を、けっぱり先生は提案するのでした。
教育問題の本質は、40年近く変わらないのかぁ!
問題をこのまま引きずっているから、今がこんなにも
ひずんでいるのか・・・と、思いました。
そして、感動のラスト!
読後感は、あくまでもさわやかです。
どこかの掲示板で見かけたので
図書館で借りてみました。
『けっぱり先生』
著:山口 瞳
新潮社、昭和47年(1972年)
新潮文庫、1975年
私立の小中高大学一貫校を経営する 名物校長
猪俣先生、通称「けっぱり先生」を取材に行く
新聞記者 宮川氏の視点から描かれた小説。
取材のきっかけは、なんと 卒業式に
「仰げば尊し」を歌わない学校がある、と聞いたから。
けっぱり先生は、熱血で暖かい人柄、先生としても立派。
そして即断即決の リーダータイプの経営者でもあります。
そのけっぱり先生を慕って、学園には
熱意ある先生達が集い、薄給ながらも
学校近くにある社宅で なにかあると集い、お酒を飲みながら
心の通い合った密な人間関係をつくっています。
この感じ、なつかしく、あたたかい。
1972年と言えば、大阪万博が一段落し、オイルショックが来る直前。
首都圏移転の筑波学園都市構想が煮詰まりつつある頃でもあります。
日本が、まだ、いい時代だったころ。
会話中心の文体は、日本語が美しかった頃の
礼儀正しさや、あるいは、言いにくいことをも親しい間柄では
上手にずけずけと言える、日本語の語彙の豊富さ、
コミュニケーションのお手本としての読み方が
ある意味、出来るかも知れません。
一番、はっとした箇所、引用致します。



*******
「宮川さん、私は、中国大陸で三年間も過ごしたんですよ。日本に帰りたくて仕方がなかった。しかし、それは考えるだけで不可能なことだったんです。絶望的な状態でした。ですけれどね、もし、日本に帰れたら、と思いましたよ。もし、生きて日本に帰ることができたら、大和の古寺を訪れたい。毎日、そう思っていました。せつないくらいに」
「……………」
「歴史のなかに自分の生命を没入して、たとえば三笠山でもいいんですけれど、春の日に、何も考えずに寝ころんでみたいと思っていましたよ。外地に何年間も暮らすと、そういう気分になるんですよ。これは、経験がないとわからないことですが」
「わかりますよ」
玉井も、しんみりとした口調で言った。
「大和・京洛を旅してみたいと切実に思いましたね。そうなんですよ、玉井君もやっとわかてきたんですよ。歴史というものがね、学問でなくて、体で分かってくるんですよ。それが本当の学問なんですけれどね」
猪俣は話を続けた。
「やっとわかってきたというのは、人間らしくなったってことですよ。教師でなくて人間になってきたんですなあ。それが嬉しくて……」
*******
(注:玉井は教師のひとり、太字は猫紫紺の手による)
まぁ、けっぱり先生のお言葉は、日本人の直感に基づいていて
正直いって時代を感じる論理でもあるのだけれど・・。
日本人の、心のありようを示した言葉だと思えてなりません。



ほかにも、気になる生徒が登場したり
学園紛争が起こったりと、エピソードは満載です。
そんな中で、教育担当記者の宮川氏、けっぱり先生、
学園に勤める先生達の視点から、
当時の教育問題が、切々と、綴られています。
・・・これが、現代の問題と驚くほど共通しているの!!
学歴主義、上級校への試験対策としての学園でいいのか、
高校は高校の、中学は中学での勉強の仕方があるのではないか、
小学校は学校が楽しければいい、宿題はいらないから放課後は遊んで、ランドセルは採用しない。
などなど、教育のあり方の考察が盛りだくさんです。
教育をよくしようという情熱があふれています!
また、PTAの存在も無視できません。
個人的な利益を求め、学校へ横車を押しつけに来る圧力団体として
描かれています。作中に出てくるPTA婦人の、物の見方のくだらなさといったら!
そしてPTA解散を、けっぱり先生は提案するのでした。
教育問題の本質は、40年近く変わらないのかぁ!
問題をこのまま引きずっているから、今がこんなにも
ひずんでいるのか・・・と、思いました。
そして、感動のラスト!
読後感は、あくまでもさわやかです。
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