顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

戦国末期の山城…黒羽城

2018年09月07日 | 歴史散歩

那珂川とその支流松葉川に挟まれた比高約30m、南北約1.5Km、東西約250mの段丘に構築された連郭式山城で、土塁や空堀が良好な状態で残っています。

栃木県北部の豪族、那須氏の支族の大関氏の居城で、大関高増の代の天正4年(1576)に白旗城から本拠を遷したのが始まりとされます。
高増は豊臣秀吉の小田原城攻め(1590)にもいち早く参陣して、秀吉から本領を安堵され、さらに慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、高増の子大関資増が徳川氏に味方して会津の上杉景勝の押さえとして働き、その際、徳川家康の援助により、黒門・中門・北坂門などの城門や塀・築地がつくられたといわれます。
本丸入り口の虎口、枡形と高い土塁にまず驚かされます。

江戸時代には黒羽藩1万8千石を領し、代々大関氏が藩主を務め明治まで続きました。関東地方の外様大名で旧領の領主として務め通した数少ない例で、しかも中世城郭規模の居城でしたが、幕府からは陣屋として扱われました。

本丸は南北約130m東西約80m、四方を高い土塁に囲まれています。模擬の物見櫓と能舞台のような文化伝承館が建っています。

御本城御住居図という文化14年(1817)の本丸御殿の見取り図がありました。

空堀、土塁はたくさん残っており、堅固な守りがうかがえます。二の丸ともいうべき大きな馬出し郭(左)と本丸(右)の間の深い空堀は高さ約15m,幅約20mもあるそうです。

馬出し郭から三の丸への空堀、虎口には石垣があり、その上には芭蕉の館の建物が門のように造られていますが、当時の復元かどうかは不明です。

元禄2年(1689)、松尾芭蕉が奥の細道の道中で、弟子の黒羽館代(家老)浄法寺高勝(桃雪)のもとに14日間も滞在したのに因み、三の丸には芭蕉の館が建てられており、入り口では芭蕉と曽良の像が迎えてくれます。

芭蕉の句碑もあちこちに建てられており、全部回り切れませんが、そのうちのひとつ、「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」…(修験光明寺を訪ね、役行者(えんのぎょうじゃ)の足駄を拝み、これからの旅に思いを馳せる)

この地で詠まれた句碑の一部です。
鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし  (桃雪邸の芭蕉の木と鶴を描いた絵の賛、絵の鶴は鳴かないが、もし一声を発すれば芭蕉の葉は破れてしまうだろう。)
田や麦や中にも夏のほとゝぎす  (緑の田と黄色の麦畑の中で、ホトトギスの声が聞こえる)
山も庭もうごき入るや夏座敷   (桃雪邸の夏座敷前に広がる庭園の佳景を詠む)