常陸太田市には、2つの八幡宮があります。どちらもこの地を治めた由緒ある佐竹氏の造営ですが、秋田へ移封後は徳川光圀、綱條の寺社改革により、水戸藩内で105社の八幡社のうち101社が取り潰しとなった、「八幡潰し」といわれる神社改めにも生き残った4社のうちの2社です。
馬場八幡宮

天喜4年(1056),源頼義が陸奥の安倍頼時鎮撫に向かう途中,源氏の氏神の石清水八幡宮の神霊を当地に分祀したことが起源とされます。(1092)賴義の子、義家、義光兄弟が戦勝を報告し馬場先にて流鏑馬を奉納、弟の新羅三郎義光がこの地に土着します。(1108)、孫の昌義の代で佐竹氏を名乗り、以後佐竹氏の守護神として崇められ大田郷の総社となりました。主祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)です。

さらに,3代目隆義の頃には,本社,礼拝堂,楼門,神宮寺,庁屋を築造しますが,天正2年(1574)に雷火のために焼失してしまいます。現在の社殿は18代義重が天正8年(1580)に造営したもので、躍動感あふれる室町時代後期の建築様式を伝えています。

天正19年(1591)、19代義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎し、これが水戸八幡宮の創祀とされています。

佐竹氏が秋田へ転封となった際は、馬場八幡宮の分霊を秋田までも勧進し、八幡秋田神社を建立して崇敬しました。

若宮八幡宮

若宮八幡宮は、「八幡宮の若宮」という意味で、多くは八幡宮の神・応神天皇の御子神である仁徳天皇「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」を主祭神として祀ります。
この地の若宮八幡宮は直線距離で1.4Km先の馬場八幡宮と対をなす,佐竹源氏の氏神で、13代義人が応永元年(1394)に鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を,舞鶴城中に分祀したのが始まりと言われています。
この13代義人は、関東管領の上杉家から8歳で佐竹家に養子に入り、そのことが佐竹一族の山入氏と約100年にわたる抗争の発端となりました。

参道の両脇には6本のケヤキが立ち並んでおり、鳥居をくぐったすぐ右側の1本は、古くから同社の御神木として崇められてきたもので、茨城県の天然記念物にも指定されています。根回りは25m、目通りは11.4m、高さは約30mで、樹齢は約640年と推定されています。

鯨が丘といわれる常陸太田の高台は、佐竹氏の居城太田城(舞鶴城)で、その二の丸の南端にこの若宮八幡宮があります。遠くに徳川光圀が生母を弔うために建立した久昌寺と義公廟が見えます。

佐竹氏は秋田に転封となった時も、大館城に入った佐竹西家が若宮八幡宮の神霊を城内に遷し、大館八幡神社を祀り守護神としました。

佐竹氏転封以後、この地は水戸徳川家の支配となります。水戸藩2代徳川光圀、3代綱條は、「八幡潰し」という八幡社に厳しい寺社改革を行います。水戸藩内の八幡社は、寺社名を吉田、静、鹿島、香取、諏訪等に改める、他の神社に合祀させる、破却するかにしました。その中で、常陸太田市のこの2社と水戸八幡宮(水戸市)、安良川八幡宮(高萩市)の4社だけが存続が認められました。
「八幡潰し」の理由としては、八幡大菩薩という神仏習合的信仰からとか、旧領主佐竹氏の氏神でありその影響を排除するためとかいわれていますが、八幡社は源氏を名乗る徳川家の氏神にもなります。しかも水戸藩における八幡信仰の拡大は、佐竹時代より光圀の時代のほうが多かったので、藩主の氏神を村鎮守とすることを禁じたためという見方もあるようです。
いずれにしても、これが9代斉昭や明治政府の神仏分離、廃仏毀釈に続く寺社改革の始まりになります。
馬場八幡宮

天喜4年(1056),源頼義が陸奥の安倍頼時鎮撫に向かう途中,源氏の氏神の石清水八幡宮の神霊を当地に分祀したことが起源とされます。(1092)賴義の子、義家、義光兄弟が戦勝を報告し馬場先にて流鏑馬を奉納、弟の新羅三郎義光がこの地に土着します。(1108)、孫の昌義の代で佐竹氏を名乗り、以後佐竹氏の守護神として崇められ大田郷の総社となりました。主祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)です。

さらに,3代目隆義の頃には,本社,礼拝堂,楼門,神宮寺,庁屋を築造しますが,天正2年(1574)に雷火のために焼失してしまいます。現在の社殿は18代義重が天正8年(1580)に造営したもので、躍動感あふれる室町時代後期の建築様式を伝えています。

天正19年(1591)、19代義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎し、これが水戸八幡宮の創祀とされています。

佐竹氏が秋田へ転封となった際は、馬場八幡宮の分霊を秋田までも勧進し、八幡秋田神社を建立して崇敬しました。

若宮八幡宮

若宮八幡宮は、「八幡宮の若宮」という意味で、多くは八幡宮の神・応神天皇の御子神である仁徳天皇「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」を主祭神として祀ります。
この地の若宮八幡宮は直線距離で1.4Km先の馬場八幡宮と対をなす,佐竹源氏の氏神で、13代義人が応永元年(1394)に鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を,舞鶴城中に分祀したのが始まりと言われています。
この13代義人は、関東管領の上杉家から8歳で佐竹家に養子に入り、そのことが佐竹一族の山入氏と約100年にわたる抗争の発端となりました。

参道の両脇には6本のケヤキが立ち並んでおり、鳥居をくぐったすぐ右側の1本は、古くから同社の御神木として崇められてきたもので、茨城県の天然記念物にも指定されています。根回りは25m、目通りは11.4m、高さは約30mで、樹齢は約640年と推定されています。

鯨が丘といわれる常陸太田の高台は、佐竹氏の居城太田城(舞鶴城)で、その二の丸の南端にこの若宮八幡宮があります。遠くに徳川光圀が生母を弔うために建立した久昌寺と義公廟が見えます。

佐竹氏は秋田に転封となった時も、大館城に入った佐竹西家が若宮八幡宮の神霊を城内に遷し、大館八幡神社を祀り守護神としました。

佐竹氏転封以後、この地は水戸徳川家の支配となります。水戸藩2代徳川光圀、3代綱條は、「八幡潰し」という八幡社に厳しい寺社改革を行います。水戸藩内の八幡社は、寺社名を吉田、静、鹿島、香取、諏訪等に改める、他の神社に合祀させる、破却するかにしました。その中で、常陸太田市のこの2社と水戸八幡宮(水戸市)、安良川八幡宮(高萩市)の4社だけが存続が認められました。
「八幡潰し」の理由としては、八幡大菩薩という神仏習合的信仰からとか、旧領主佐竹氏の氏神でありその影響を排除するためとかいわれていますが、八幡社は源氏を名乗る徳川家の氏神にもなります。しかも水戸藩における八幡信仰の拡大は、佐竹時代より光圀の時代のほうが多かったので、藩主の氏神を村鎮守とすることを禁じたためという見方もあるようです。
いずれにしても、これが9代斉昭や明治政府の神仏分離、廃仏毀釈に続く寺社改革の始まりになります。