顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

芭蕉ゆかりの名刹、雲巌寺   (大田原市)

2018年09月17日 | 歴史散歩
吉永小百合出演のJR東日本のテレビCMで一躍有名になった雲巌寺は、八溝山地の奥にある臨済宗妙心寺派の名刹で、筑前博多の聖福寺、越前の永平寺、紀州由良の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれています。

武茂川にかかる瓜鉄橋(かてっきょう)、緑の深山と石段を背景にお定まりの撮影ポイントです。「瓜鉄」とは「子孫が長く続いて繁栄すること」を意味しているそうです。

急な石段を登り山門をくぐると、正面に仏殿(釈迦堂)、方丈(獅子王殿)が一直線に並ぶ代表的な禅宗伽藍配置となっています。

開祖は仏国国師(後嵯峨天皇の第三皇子)で関東地方を行脚中、この地に庵を結び弘安6年(1283)に時の執権北条時宗が大檀越となり大禅寺を建立しました。

天正18年(1590)豊臣秀吉よる小田原征伐の際、烏山城攻めで住民が雲巌寺に逃げ込みました。豊臣方は北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ちましたが数年後再建されました。弘化4年(1847)にも再び火災に見舞われ、嘉永2年(1849)になって再建されています。

山門は豊臣方の火災にも焼け残ったと伝わっていますが、江戸時代前期に再建されたものと考えられます。山門二階内部には、宝暦9年(1759)に二階部分を修復したことを示す修理札が残されているそうです。かっては杮葺でしたが昭和30年代後半に現在の銅板葺きになりました。

仏殿(釈迦堂)は、幸いにも弘化4年(1847)の火災を免れましたが、天正の兵火後300有余年が経過したので、大正11年(1922)に改築竣工されました。その建築様式は、鎌倉末期の手法によるそうです。ご本尊は銅造釈迦如来坐像です。

方丈(獅子王殿)には「人面不知何處去 桃花依舊笑春風」の扁額が掛かっています。桃花は去年と同じように美しく咲いているが、去年相見た人はもはやいないという意味の禅語だそうです。

芭蕉が江戸深川時代に禅の教えを受けた佛頂禅師が、かつてここで修行をしたことから、芭蕉自身も元禄2年(1689)にここを訪れ、「おくの細道」に書いています。佛頂禅師は鹿島の根本寺21世住職で、鹿島神宮との領地争いの訴訟のため芭蕉庵に近い臨川寺に滞在し、芭蕉はしばしば訪ねて教えを受けていました。

「おくのほそ道」 の雲巖寺の段に「当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。『竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば』 と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。(中略)後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。『木啄も 庵はやぶらず 夏木立』と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。」とあります。その佛頂禅師の歌と芭蕉の句の石碑があります。