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烏山城は室町から戦国時代にかけてこの一帯を支配した那須氏から、江戸時代には烏山藩2万石として様々な大名の居城となった標高202mの八高山に築かれた連郭式山城です。
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牛の寝ている姿に似ていることから臥牛(がぎゅう)城とも呼ばれ、東西約350m南北約600mの範囲に五城三廓(古本丸、本丸、中城、西城、北城、常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪)の廓が配されています。
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築城で伝わるのは、那須資氏の二男資重で沢村城主沢村氏の家督を継いで沢村五郎資重と名乗った資重が、本家を継いだ兄那須資之(上那須氏)との不和によりこの地に逃れ、応永25年(1418年)に烏山城を築いて居城とし下那須氏となったという説が有力です。
以後、下那須氏の本拠となり、永正13年(1516)には上下那須氏の統一で那須宗家の居城となますが、戦国時代には、東隣の佐竹氏により度々攻撃され、永禄6年(1563)の大海の戦いなど、何度も城下まで攻め込まれていますがいずれも退けて武名を馳せました。(拙ブログで5月26日にご紹介の檜澤城はここから北東に直線距離で17km、烏山城攻撃の佐竹の軍事拠点とされています)
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で那須資晴は参陣せず、那須8万石を改易となってしまいます。江戸時代には、織田・成田・松下・堀・板倉・那須・永井・幕府代官・稲垣氏と短期間のうちに城主が交替し、一時那須資景が烏山城主に戻った時代もありましたが、享保10年(1725)大久保常春入封の後は、大久保氏が8代140余年にわたり城主となり、明治の版籍奉還とともに廃城となりました。
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万治2年(1659)堀親昌により山麓に三の丸が築かれ城主の居館となりました。この地方では珍しい石垣が組んであります。
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登城口は他にもありますが、寛永17年(1640)からこの七曲り口が新たな登城口(大手口)として整備されました。三の丸から本丸までは比高約110m、そのうち比高約60mが急勾配の七曲り坂…、登城の侍になった気持ちで汗をかきました。
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七曲坂を登り切ると、常磐曲輪の手前には堀切があり、車のついた引橋(車橋)がかかっていたという案内板があります。
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城の正面を守る重要な常磐曲輪は土塀や堅固な櫓門が築かれていたとされます。
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吹抜門の側面には敵に横矢が掛かるように石垣が築かれていました。
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城跡はコースが整備されおり、いろんな案内板が親切に教えてくれます。
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正門跡です。右手本丸側には崩れかかってはいますが石垣が築いてあります。土塀などで囲まれた厳重な防御態勢であったとされ、内枡形を経て本丸へは直角に曲がります。
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本丸西側には深さ7,8m、幅20mn程度の規模の大きい横堀が続いています。
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平坦な本丸は南北約65m、南辺約70m、北辺約40mの台地で、明応年間(1492~1501)那須資実が城郭拡張し当初は二の丸でしたが、古本丸が使用しなくなると実質上の主郭になりました。杉林の陽の当たらない環境が気に入ったのかヤブミョウガ(藪茗荷)が群生…ツユクサ科でショウガ科のミョウガとは種が違います。
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本丸の北側に古本丸があります。享禄年間(1528~1531)火災で建物が焼けたあとに再建されず、二の丸に主郭が移ったといわれます。
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古本丸の先には堀切があり、中城、北城の曲輪につながります。
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三の丸の一画に建つ城主大久保常春を祀った寿亀神社、徳川八代将軍吉宗の寄贈と伝わる衣冠束帯姿の常春像の厨子が御神体として収められているそうです。
軒先に御朱印がケースの中に置かれ自由に押せるようになっていてしかもティッシュまで用意されています…、その心遣いに感激しました。(マニアではありませんが…。)
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傍らには川口松太郎の句碑、「梅雨くらく蛇姫様の来る夜かな」があります。烏山藩大久保家にまつわる蛇姫様の民話をもとに川口松太郎が小説「蛇姫様」を書き、衣笠貞之助監督・長谷川一夫、渡辺邦男監督・市川雷蔵などで映画化されました。
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三の丸跡には香りの強いヤマミツバ(山三つ葉)と八重咲きのヤブカンゾウ(藪萱草)の群落がありました。
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カンゾウ(萱草)は初夏の季語、忘れ草ともいいます。中国の古書に「憂いを忘れさせる草」とある説、一日花なのでという説などがあります。英語ではDaylilyというそうです。
萱草や浅間をかくすちぎれ雲 寺田寅彦
生れ代わるも物憂からましわすれ草 夏目漱石
忘草川は小さな渦を持ち 深見けん二
生れ代わるも物憂からましわすれ草 夏目漱石
忘草川は小さな渦を持ち 深見けん二