野友(のども)城は、常陸国の南東部に存在した、常陸武田氏の城です。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族が、上杉禅秀の乱(1416)で禅秀方に付いて敗北し甲斐から逃れて常陸南部に移り住んだことに始まります。応永24年(1417)には神明城を築き、西砦、小貫城と勢力を拡げ天文2年(1533)には本拠の木崎城を築きます。野友城は、北浦の水運の要衝の地を抑える木崎城の支城として、永禄9年(1566)武田信房が築城し、北浦北部を支配する鹿島氏に対抗する拠点としました。
しかし天正19年(1591)の佐竹氏による三十三館仕置きで、鹿島氏や武田氏の当主は謀殺され、この野友城も廃城になってしまいました。

巴川右岸にせり出した標高約28m比高約25mの台地先端に、長辺約100mの二つの郭で構成されている平山城です。

巴川から見た野友城址です。水運に利用されていた巴川は、当時はもっと川幅も広く北浦の一部となって城の北側に接していたと思われます。

標塔の右手は城の北部を守る切り立った崖になって、その上には横堀が周っています。

東側にある源照院というお堂の脇が虎口への入り口になっています。

北側からの大手道の両脇には三重の堀があり、北からの攻撃を強く意識した造りになっています。

三重堀の一部分しか画面には入りませんが。

Ⅰ郭北側の横堀、深さ8mくらいあります。

東南部は掘削されていますが、高い切岸や堀で守られていたという見方もあります。当時の堅固な状況が、ここの字名「要害」にも窺えます。

2郭は足の踏み場もない竹藪の中、Ⅰ郭への登城ルートにたどり着くことは諦めました。

1郭の西側にある深さ10m以上もある谷津は天然の堀の役目をしたと思われます。

キイチゴ(木苺)がなっていました。黄色い実のモミジイチゴはよく見かけますが、紅い実のキイチゴは初めてです。口に含むとうす甘く、短命なこの城のような味?がしました。
甲斐武田氏の発祥地は、ここから27キロほど北のひたちなか市武田といわれています。拙ブログ「甲斐武田氏発祥の地…武田氏館」で紹介させていただきました。
常陸国に戻ってきたその一族が、460年前には新羅三郎義光の子で義業(佐竹氏)、義清(武田氏)の兄弟だった佐竹氏に滅ぼされてしまうのは、歴史の為せる悪戯なのでしょうか。

城郭と畑の境に変わったカタバミが咲いていました。調べると、カタバミ科の園芸種オキザリス・トリアングラリスです。多分ゴミに混じって捨てられた?…丈夫な多年草のようなので生育環境が合えばやがて一帯に勢力を拡げていくかもしれません。葉の形も「武田菱」に似ているような気がしてきました。