顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

下野の雄、那須一族の烏山城

2019年07月13日 | 歴史散歩

烏山城は室町から戦国時代にかけてこの一帯を支配した那須氏から、江戸時代には烏山藩2万石として様々な大名の居城となった標高202mの八高山に築かれた連郭式山城です。

牛の寝ている姿に似ていることから臥牛(がぎゅう)城とも呼ばれ、東西約350m南北約600mの範囲に五城三廓(古本丸、本丸、中城、西城、北城、常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪)の廓が配されています。

築城で伝わるのは、那須資氏の二男資重で沢村城主沢村氏の家督を継いで沢村五郎資重と名乗った資重が、本家を継いだ兄那須資之(上那須氏)との不和によりこの地に逃れ、応永25年(1418年)に烏山城を築いて居城とし下那須氏となったという説が有力です。
以後、下那須氏の本拠となり、永正13年(1516)には上下那須氏の統一で那須宗家の居城となますが、戦国時代には、東隣の佐竹氏により度々攻撃され、永禄6年(1563)の大海の戦いなど、何度も城下まで攻め込まれていますがいずれも退けて武名を馳せました。(拙ブログで5月26日にご紹介の檜澤城はここから北東に直線距離で17km、烏山城攻撃の佐竹の軍事拠点とされています)
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で那須資晴は参陣せず、那須8万石を改易となってしまいます。江戸時代には、織田・成田・松下・堀・板倉・那須・永井・幕府代官・稲垣氏と短期間のうちに城主が交替し、一時那須資景が烏山城主に戻った時代もありましたが、享保10年(1725)大久保常春入封の後は、大久保氏が8代140余年にわたり城主となり、明治の版籍奉還とともに廃城となりました。

万治2年(1659)堀親昌により山麓に三の丸が築かれ城主の居館となりました。この地方では珍しい石垣が組んであります。

登城口は他にもありますが、寛永17年(1640)からこの七曲り口が新たな登城口(大手口)として整備されました。三の丸から本丸までは比高約110m、そのうち比高約60mが急勾配の七曲り坂…、登城の侍になった気持ちで汗をかきました。

七曲坂を登り切ると、常磐曲輪の手前には堀切があり、車のついた引橋(車橋)がかかっていたという案内板があります。

城の正面を守る重要な常磐曲輪は土塀や堅固な櫓門が築かれていたとされます。

吹抜門の側面には敵に横矢が掛かるように石垣が築かれていました。

城跡はコースが整備されおり、いろんな案内板が親切に教えてくれます。

正門跡です。右手本丸側には崩れかかってはいますが石垣が築いてあります。土塀などで囲まれた厳重な防御態勢であったとされ、内枡形を経て本丸へは直角に曲がります。

本丸西側には深さ7,8m、幅20mn程度の規模の大きい横堀が続いています。

平坦な本丸は南北約65m、南辺約70m、北辺約40mの台地で、明応年間(1492~1501)那須資実が城郭拡張し当初は二の丸でしたが、古本丸が使用しなくなると実質上の主郭になりました。杉林の陽の当たらない環境が気に入ったのかヤブミョウガ(藪茗荷)が群生…ツユクサ科でショウガ科のミョウガとは種が違います。

本丸の北側に古本丸があります。享禄年間(1528~1531)火災で建物が焼けたあとに再建されず、二の丸に主郭が移ったといわれます。

古本丸の先には堀切があり、中城、北城の曲輪につながります。

三の丸の一画に建つ城主大久保常春を祀った寿亀神社、徳川八代将軍吉宗の寄贈と伝わる衣冠束帯姿の常春像の厨子が御神体として収められているそうです。
軒先に御朱印がケースの中に置かれ自由に押せるようになっていてしかもティッシュまで用意されています…、その心遣いに感激しました。(マニアではありませんが…。)

傍らには川口松太郎の句碑、「梅雨くらく蛇姫様の来る夜かな」があります。烏山藩大久保家にまつわる蛇姫様の民話をもとに川口松太郎が小説「蛇姫様」を書き、衣笠貞之助監督・長谷川一夫、渡辺邦男監督・市川雷蔵などで映画化されました。

三の丸跡には香りの強いヤマミツバ(山三つ葉)と八重咲きのヤブカンゾウ(藪萱草)の群落がありました。

カンゾウ(萱草)は初夏の季語、忘れ草ともいいます。中国の古書に「憂いを忘れさせる草」とある説、一日花なのでという説などがあります。英語ではDaylilyというそうです。

萱草や浅間をかくすちぎれ雲  寺田寅彦
生れ代わるも物憂からましわすれ草  夏目漱石
忘草川は小さな渦を持ち  深見けん二

水戸城址で唯一現存…薬医門

2019年07月09日 | 水戸の観光

南の千波湖、北の那珂川に挟まれた洪積層台地を天然の要害とした水戸城は、建久4年(1193)馬場資幹が居城を築いたのが始まりとされます。応永33年(1426)以降は江戸氏の居城となり、内城, 宿城, 浄光寺の三郭より成る城の輪郭ができ、天正18年(1590)常陸54万石の太守になった佐竹氏により秋田移封までのわずか13年の間に現在の全容がほぼ完成したといわれています。
その後水戸徳川家の居城として約260年の歴史を持ちますが、城内の建物は幕末の藩内抗争や空襲ですべて消失し、唯一現存する建築物は本丸跡の薬医門だけです。

これは、この薬医門が明治初期に初代茨城県令の安田邸表門として移築され, さらに昭和16年に市内の祇園寺に移されていたのが幸いして焼失を免れたからで、昭和56年, 祇園寺から水戸市に寄贈されたのを機会に元の場所近くに復元されました。

形式は正面の柱の間が3つで出入り口は中央だけの三間一戸で2つの脇扉が付いた薬医門、屋根の棟の位置が本柱(鏡柱)と控柱の中間より前面に寄せられるため、正面の軒が深く風格のある門構えとなっています。

建立年代を特定する資料は発見されていませんが、構造や技法から安土桃山時代末期、佐竹氏が水戸城主の時期に建てられた水戸城の本丸橋詰門という説が一般的です。



その根拠として、案内板によると建物各部分の木割の太さ、屋根面の棟木は見えるようになっている化粧棟木で、その棟木を支え装飾にもなっている板蟇股の雄大さ、そして化粧垂木の端の反り増しの技法、柱の上の実肘木の形状、板蟇股の繰形が挙げられています。

また 昭和56年の解体時には化粧棟木に「享保十八年七月日」(※1733)の墨書銘、実肘木や板蟇股にカブ, オモダカなどの絵番付の墨書が発見されたそうです。(※絵番付とはどの部分に使うかを示す文字や絵を墨書や刻んで記したもの。)

幕末に多くのの部材が取り替えられており建立当時の部材は一部しか残ってはいないようです。
昭和56年移築の際には、建立当初の茅葺きが桟瓦葺になっていた屋根を茅葺き風銅板葺きに改めました。屋根野地板や小屋組を新材に取り替え、控柱4本はいずれも根継が高い位置でされていて構造的に不安があったため, 2本については新材に取り替え、扉入双金具, 乳金物, 飾り鋲などの形状については在来のものを使用し, 破損のものは復元作製したとのことです。

本丸には水戸一高があり、本城橋を渡った入り口から城門の薬医門まで、土塁に囲まれた枡形を経て直角に曲がる配置になっています。(なお学校敷地内ですが薬医門までの見学入場は許可されています。8:30~16:30)


大洗サンビーチ

2019年07月06日 | 日記

環境省選定の快水浴場百選に選定された「大洗サンビーチ」は、広大できれいな砂浜と遠浅で澄んだ水で知られ、昨年の来客数198,000人は県内トップの海水浴場です。今年の水質調査結果も例年通りAAランクの「適」のお墨付き、いま7月13日(土)の海開きに向けて準備が始まっていました。

安全な遊泳区域を示す黄色いブイの設置作業も順調のようです。漁業監視船とジェットスキーの息の合った素早い作業が見事です。

今まで不思議に思っていた、砂に埋めてある黄色いロープの正体は、これでした。

大型の海の家の工事も急ピッチです。遠くに高さ60mのマリンタワー(左手)、入港しているフェリー(右手)が見えます。

11面のビーチバレーコートと津波避難施設(通称ビーチセンター)です。東日本大震災で最大4.2mの津波に襲われた大洗町、避難デッキは海抜9mの高さで、茨城県が想定する最大級の津波に対応するそうです。

飛び立とうとしているハングライダー…、見ている間はうまくいきませんでした。

駐車場脇に置かれたテトラポット、後方に大洗マリーナのボートのマストが林立しています。
駐車場はなんと7000台収容、また、ユニバーサルビーチとして、障害を持った人でも安全に海水浴が楽しめるよう水陸両用の車椅子の無料貸し収容出しや、専用駐車場、更衣室なども完備しています。



隣接して大洗マリーナ、北海道航路のフェリーターミナル、大洗シーサイドステーションのショッピングモール街などもあります。 

付近の砂地で見かける元気な植物です。
コマツヨイグサ (小待宵草)は、 アメリカ原産の帰化植物で明治以来野生化し、在来の砂丘植物と競合するため要注意外来種に指定されているそうです。

シロツメクサ(白詰草)は、クローバ、ウマゴヤシ(馬肥し、苜蓿)とも呼ばれるおなじみマメ科の植物です。江戸時代、オランダから長崎に輸入されたガラス製品の梱包緩衝材として、乾燥したものが使われていたのでツメクサの名が付きました。

同じ仲間のムラサキツメクサ(紫詰め草)は、アカツメクサ(赤詰め草)ともいいますが、ムラサキウマゴヤシ(紫馬肥)となると別の植物アルファルファになるので厄介です。
アルファルファは中国名で苜蓿(もくしゆく)といわれ、それが誤用されたといわれています。

季語は春、私の歳時記では苜蓿(うまごやし、もくしゅく)、クローバ、白詰草として載っていました。

苜蓿の焼跡蔽ふことをせず  石田波郷
スカートをひろくクローバにひろげ座る  山口青邨
赤詰草白詰草に勝る丘  高澤良一

まもなくこのビーチも若い歓声でいっぱいになることでしょう。期間中の好天を願いたいものです。

世界一の青銅製牛久大仏

2019年07月01日 | 日記

牛久大仏、正式名称牛久阿弥陀大佛は1993年に浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られ、ブロンズ製大仏立像で世界一の高さは120m、阿弥陀如来の十二の光明に因んだそうです。

この巨大な大仏像は、まず中央に鉄骨の主架構を組み上げ、その周囲に20段の輪切りにしてさらに平均約17個に分割されたブロックを巨大クレーンで組み合わせ、表面は1.5m四方の青銅板6000枚で覆いました。

大仏の胎内は、お寺の本堂のようになっています。
2階知恩報徳の世界は写経を行う空間で、写経席は77席もあり、なぞるだけで写経ができるようにもなっている半紙も用意してあります。

3階の蓮華蔵世界は、約3,400体の胎内仏が壁一面に安置された金色の世界が広がり、毎朝毎夕に読経が響き渡る厳粛な空間です。

大仏の胸部にある地上85mの展望台からは東西南北が見渡せ、天気次第ではスカイツリーや富士山も見えるそうです。北側には「あみプレミアム・アウトレット」の建物が見下ろせました。

トイレの窓からがちょうどいい表情でした。丸まった髪の毛は螺髪(らほつ)といいますが、直径1m,重量200kgで総数480個もあるそうです。