裏ユキヒロック

ロックとバイクとラーメンが大好きだ。

まとめて4

2004年07月27日 | その他
20日から会社へ。私は通常モードに戻ったが被害にあった皆さんは、
まだまだ大変な状態と思われる。

天災なのでなんとも言いようがないけど、
等価交換じゃないけど、きっとその分いいことがあるよ。
経済性優先の穴だらけの防災対策が仇になってしまった。
「備えあれば憂いなし」と言うけど、なかなか難しいよね。

刹那的かもしれないけど、財産なんて貯め込まずにその日暮らしで
浮雲のような身軽な生活ってのも有りかもしれん。

そして、もっと大切なものも見えた気もします。
人の力の弱さと強さ。
人は自然にはかなわないけど、みんなで協力すればなんとかなる!みたいなね。
隣人が誰かもわからないような社会ってのはやっぱ間違ってるんだと思います。

一日も早く復興しどうせならこれを機に、更に発展される三条の姿が見たい。

まとめて3

2004年07月27日 | その他
16日は朝6時頃、入れなかった三条の惨状を見に行った。
ミサイルのついた自衛隊のヘリがまだ取り残されている
被災者の救助を行っていた。何機もヘリが飛んでいて物々しい状況だった。
島田の一部が水が引いていたが、本成寺や条南町などはまだ腰から膝くらいまで水が見えた。
まさに戦場のようだった。

溜まっていた仕事を適当に片付け、
17日からの3連休は仲間のうちの復興に向かった。

「見た目ほどは活躍しません!」
というのが、つかみネタだったが、笑う気力もないほど皆さん疲れてました。
17日 AMタナカ氏宅 PMタカイ氏宅
18日 AMタカイ氏宅 PMノブヤン+タナカ+修宅を廻る
19日 タナカ氏宅
下水道が整っていない三条は、泥なのか糞なのか、とにかく臭い!
道路にあふれたゴミは交通を麻痺させ、まるで歩行者天国。
退廃的な無法地帯のようになっていた。そうTVで見る外国のようなスラム街状態。

まとめて2

2004年07月27日 | その他
夜中の2時に実家は避難勧告で役場に避難していたようだが、
私は3時に会社から昨夜の続きを要請された。
電話をとった妻に「電話とんなよー」と八つ当たりしながら
会社に行ってみると皆でまた土嚢造りを始めていた。
昨夜の造り置きを積んで一陣は出発していた。
14日は分水の水没した排水機場のまわりに土嚢を積んで
ポンプで排水しようという作戦だったらしい。
お偉い国土省の連中はただ見てるだけ。格好だけはバカカッコいいんだけど。

昨日とあわせて土嚢6千個完成!!!
お昼に仮設便所配達設置命令に現場へ行ってみたけど
一晩中川に入って土嚢をリレーで運んでいた消防団の方々が
道に寝ている姿は強烈でした。
後で聞いたのだが、この排水機の電力が我が実家の近くにある変電所から供給されていて
変電所が水没すると排水機場が機能しなくなり刈谷田川が決壊して栄町が水没していたそうな。
かなり重要な場所に関わっていたことに驚いた。

15日は会社を休んだ。
実家が水が引いたので、避難前に上げた畳や家具を元に戻したり
水没した車庫の掃除をした。
子供も学校が休みになったので面倒もみなきゃなんなかったし。
妻はデイサービスに勤めていて、
水害にあった家のお年寄りも集まって大変だったようだ。


まとめて

2004年07月27日 | その他
日記のはずが、空白の2週間?あまり。
7月13日~20日までを書いておこう。

まるで悪夢のようだった。

平凡で退屈な日常ということが、
どんなに素晴らしいことなのかよくわかったよーな気がするよ。

7月13日(火)の朝から大雨だったけど、
まさか、こんな大惨事になるなんて思いもしなかった。
午前中に五十嵐川が溢水したという話を聞いたときは
「台風が来るぞー!」くらいの軽い「ワクワク」だったんですが
まさか、決壊してこんな大水害になるなんて・・・。

午後から刈谷田川が決壊しそうだということで、
会社が国土交通省から信濃川の維持管理を請け負っている関係で
土嚢袋に砂を入れて小須戸の堤防にピストン輸送。
1時から夜9時くらいまで10人くらいで2千個ぐらい造った。

夜、家に帰ってみたら実家の前の道路が30cmくらい水が溢れていた。
今回決壊した五十嵐川からの支流の近くの川が溢水したそうだ。
自宅に来る?って聞いたが「大丈夫だからいいやー」
ってことで家で寝ようかと思っていると、12時近くにタナカ氏から電話。
金沢に出張に行っていて帰ってきたら国道8号線から嵐南に入れない!
とのこと。うちに泊まっていただいた。