『にぎつじんじゃ』と読みます。
昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により神社建築物はすべて灰燼に帰しその後久しく仮社殿のままであった。
昭和57(1982)年広島市の道路計画にもとづいて神社境内地の一部を市に譲渡したのを機に新たに本殿、拝殿、中門、瑞垣、手水舎、社務所、職舎を復興し、昭和59(1984)年6月9日竣工奉祝祭を斎行した。ここに当事業の完成を祝い記念碑を建てる。
原爆の惨禍の中から復興に向けて力強い歩みがあったからこそ、
いまの広島市になったのであろうと思います・・・・
ここ饒津神社で復興記念碑の文章を読みながらそんなことも思い
原爆の傷跡の頁にいっしょに編集しました。
饒津神社境内に建立されている
原爆の傷跡 と 饒津神社復興記念・碑
昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により神社建築物はすべて灰燼に帰しその後久しく仮社殿のままであった。
昭和57(1982)年広島市の道路計画にもとづいて神社境内地の一部を市に譲渡したのを機に新たに本殿、拝殿、中門、瑞垣、手水舎、社務所、職舎を復興し、昭和59(1984)年6月9日竣工奉祝祭を斎行した。ここに当事業の完成を祝い記念碑を建てる。
原爆の惨禍の中から復興に向けて力強い歩みがあったからこそ、
いまの広島市になったのであろうと思います・・・・
ここ饒津神社で復興記念碑の文章を読みながらそんなことも思い
原爆の傷跡の頁にいっしょに編集しました。
饒津神社境内に建立されている
原爆の傷跡 と 饒津神社復興記念・碑
原民喜の『夏の花』を読むと泉邸、饒津公園(神社)、東照宮、常盤橋で転覆していた貨物列車などなど・・・わたしのおじさんが書残した『原爆記』と重ねてその悲惨さが・・・
牛田に住んでいたわたしは初詣でしばしばお参りに行ってはいましたが、録に境内をみることもなかったなと、
ぶらり散歩するといろいろなものが目に留まりました・・
原爆によって傷つきひびが入ったといわれる手水鉢もいままでよくみたことはありませんでした。
饒津神社境内に残されている
原爆の傷跡 と 復興記念碑

ぶらり散歩するといろいろなものが目に留まりました・・
原爆によって傷つきひびが入ったといわれる手水鉢もいままでよくみたことはありませんでした。
饒津神社境内に残されている
原爆の傷跡 と 復興記念碑
全国四十七都道府県に在住する被爆者が「ふたたび被爆者をつくらない。」との願いを、各地の県木に託してつくられた森に植樹されたヤマモミジ。
『県の木・モミジ
モミジは広島県全域に分布し,特別名勝三段峡,名勝帝釈峡,日本三景宮島など名所も数多い ことから,県の木に制定されました。なお、県の花は正式に決められていませんが、県民に なじみ深いモミジを県の花としています。昭和41(1966)年9月12日制定』ということだそうです。
県の木がもみじということはなんとなく聞いて知ってはいましたが、
そのいわれ1966年制定などは今回知りましたわたしは・・・
北海道から南へ・・・やっとわが広島県にやってきました・・・沖縄まではまだまだ
被爆者の森

モミジは広島県全域に分布し,特別名勝三段峡,名勝帝釈峡,日本三景宮島など名所も数多い ことから,県の木に制定されました。なお、県の花は正式に決められていませんが、県民に なじみ深いモミジを県の花としています。昭和41(1966)年9月12日制定』ということだそうです。
県の木がもみじということはなんとなく聞いて知ってはいましたが、
そのいわれ1966年制定などは今回知りましたわたしは・・・
北海道から南へ・・・やっとわが広島県にやってきました・・・沖縄まではまだまだ
被爆者の森