四国を歩いて遍路したときの話をしたい。しかしその前にしばしインドにバックパッカーしたときのことを話さねばならない。なぜなら私が本気で四国を歩こうと思ったのはインドのリシケシだったから。高野山を降りて2年目にインドへ行った。インドへ行かねば仏教は分からないそんな強迫観念にも似たものを感じていた。
何の予備知識も持たずに行った5月の熱いインドで、逃げ込むかのようにリシケシまでたどり着き、冷たいガンジス河の水に火照った身体をつけていたとき、どこからともなく一人の雲水さんが目の前に来られた。臨済宗で修行する信玄師であった。
信玄師は、私より十ばかり年長で、普段は伊豆の小庵に住み托鉢をして生活しておられた。その師匠は昭和の白隠禅師と言われ時の歴代首相のご意見番でもあられた山本玄峰師のお弟子さんで、信玄師はその孫弟子に当たっていた。
玄峰老師は、幼少の頃目を悪くされ、それが為に一人歩いて四国を遍路する途上、高知の雪渓寺で倒れられ、そのままお坊さんになられた。それが為に、後に白隠禅師開山の三島の龍澤寺を中興されたり、臨済宗の妙心寺派の管長になられるなど影響力のある方が四国を歩かれて坊さんになられた。また隠居されてからも歩かれたとあっては臨済宗の坊さんたちは四国を歩くことが一つのステイタスとなり、一周歩けばそれだけよく坐禅ができるようになると言われているということだった。
そんなことを聞いて真言宗なのだから当然歩いているのでしょうね、と問われたとき、何とも困ったことになり、これから歩く予定だとでも言ってしまったのだったと記憶している。それで、それならと色々と四国の歩き方をインドのリシケシでガンジス河を眺めながら毎日聞くことになった。
靴はいけない歩いていると夕方には足が膨らむので草鞋がいい、それもわらはすぐ擦れるからビニールの太い荷造り紐で編むとか、それも二足のわらじと言うけど四国も二足で歩けるのだとか。なるべく荷物は少なく、寝袋と下着くらいにすること。下着も褌だけでいいとか。荷物は一つではなく二つにまとめて前と後ろに分散するのだとか。傘はいらない、ポンチョのようなものがいいとか。とにかくその話は実際四国に行ったとき大変役に立った。
それでその3ヶ月後、インドから戻ると、私はとにかく伊豆の信玄師の庵をお訪ねした。信玄師の庵には小さいながら、囲炉裏が切ってあり、抹茶をご馳走になった。外には露天風呂があって、入りながら相模湾が見渡せる贅沢なロケーションでもあった。早速草鞋の編み方を学び、それを履いて一緒に西伊豆のまちまちを托鉢に歩いた。続く
何の予備知識も持たずに行った5月の熱いインドで、逃げ込むかのようにリシケシまでたどり着き、冷たいガンジス河の水に火照った身体をつけていたとき、どこからともなく一人の雲水さんが目の前に来られた。臨済宗で修行する信玄師であった。
信玄師は、私より十ばかり年長で、普段は伊豆の小庵に住み托鉢をして生活しておられた。その師匠は昭和の白隠禅師と言われ時の歴代首相のご意見番でもあられた山本玄峰師のお弟子さんで、信玄師はその孫弟子に当たっていた。
玄峰老師は、幼少の頃目を悪くされ、それが為に一人歩いて四国を遍路する途上、高知の雪渓寺で倒れられ、そのままお坊さんになられた。それが為に、後に白隠禅師開山の三島の龍澤寺を中興されたり、臨済宗の妙心寺派の管長になられるなど影響力のある方が四国を歩かれて坊さんになられた。また隠居されてからも歩かれたとあっては臨済宗の坊さんたちは四国を歩くことが一つのステイタスとなり、一周歩けばそれだけよく坐禅ができるようになると言われているということだった。
そんなことを聞いて真言宗なのだから当然歩いているのでしょうね、と問われたとき、何とも困ったことになり、これから歩く予定だとでも言ってしまったのだったと記憶している。それで、それならと色々と四国の歩き方をインドのリシケシでガンジス河を眺めながら毎日聞くことになった。
靴はいけない歩いていると夕方には足が膨らむので草鞋がいい、それもわらはすぐ擦れるからビニールの太い荷造り紐で編むとか、それも二足のわらじと言うけど四国も二足で歩けるのだとか。なるべく荷物は少なく、寝袋と下着くらいにすること。下着も褌だけでいいとか。荷物は一つではなく二つにまとめて前と後ろに分散するのだとか。傘はいらない、ポンチョのようなものがいいとか。とにかくその話は実際四国に行ったとき大変役に立った。
それでその3ヶ月後、インドから戻ると、私はとにかく伊豆の信玄師の庵をお訪ねした。信玄師の庵には小さいながら、囲炉裏が切ってあり、抹茶をご馳走になった。外には露天風呂があって、入りながら相模湾が見渡せる贅沢なロケーションでもあった。早速草鞋の編み方を学び、それを履いて一緒に西伊豆のまちまちを托鉢に歩いた。続く