住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

山川草木悉有仏性ということ

2005年05月19日 20時44分09秒 | 仏教に関する様々なお話
日本の仏教ではよくこんなことを言う。山も川も草も木もみんな仏なんだ。悟っているんだと。分かったような分からないような。それでもこの言葉は一人歩きして自然は仏なのだから大切にしようということになって、環境問題の会合で突然この言葉が飛び出してきたりしているようだ。

悟るのはものを考える能力のある人や神々のような存在であって、本来仏教では植物や自然環境は輪廻の中に含めないのだから、悟るということはないし、解脱もない。それでも我が国の仏教ではよくこの言葉が使われる。

円空仏という独特の荒削りの木像仏がある。江戸中期の臨済宗の円空という坊さんが、自らの修行と教化のために、12万体の仏像を彫る大願を起こして、木の中に仏を見てそこに仏を掘り魂を入れた。また大きな石や岩にそのまま仏を刻んだ磨崖仏というのも全国各地にある。これらは何れも自然の中に仏を見出した例と言えよう。

しかし、私はこの言葉、山川草木悉有仏性とは、自然に仏性があるとか、もともと悟っているということではなく、その自然の中にお釈迦様が教えられた悟りへ至る教え、真理、法則がそのまま見いだし得る、私たちが悟るために学ぶべきものがある、あたかも仏が説法しているかの如くそこから教えが聞こえてくる、ということではないかと考えている。

だからこそ自然は仏なのだ。なぜならば、仏とは私たちを悟りへ至らせるために教え導く存在であるのだから。何気なく見る草や木々の生態に、自然界の法則がそのまま窺い知られる。川の流れ、大地の転変にこの世の真理を見いだすことが出来る。

だからこそ、そこに仏陀の本性が見いだされるのであり、仏と言われるに匹敵する智慧が隠されている。ということは、本来、あらゆるすべてのものから私たちは教えを得ることが出来るということになり、やはり必要なのは私たち自身のそれを受け取る能力、感性、探求心が求められているということなのだと思う。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする