住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

玄侑宗久師の書を読んで

2005年05月10日 17時45分25秒 | 様々な出来事について
今をときめく玄侑宗久師の書は、既に受賞作「中陰の花」を以前読ませていただいた。流麗なその文章はさすがに賞を受けられるに値するものを感じさせていた。ただ、もう一つ何か物足りなさを感じたことを憶えている。僧侶としてもう一つ突っ込んだ主張が感じられなかったのだ。読んだ人に考える題材を与えた、その後はどうぞお好きなように、と言うプラスアルファを読者におまかせする。そんな後味の悪さを感じた。

そして、小説ではない解説書として、筑摩書房刊「死んだらどうなるの?」をこのたび、拝読させていただいた。様々各界を代表する人の所見を取り上げ、科学的な最先端の情報も加味した死に関するパンフレットというような内容であった。それはそれは私などが知り得ない、よくもまあ調べられたものだという豊富な内容となっている。懐かしい名前も続々登場してきた。デビット・ボーム、キューブラー・ロス、荘子・・・。

荘子は高校生の時、倫理の時間に自由研究で読破し発表したものだし、キューブラー・ロスは最近亡くなられた有名な死に関する研究者だ。デビット・ボームは、かつて盛んに読んだインドの哲人クリシュナムールティとの対談で精神世界を重要視する物理学者として記憶に残っている。

死んだらどうなるの? 結局その結論はこの本にはない。題名に偽りありとも言えるし、その通りの題名だとも言えよう。最後まで、クエッションなのだから。それにいくつかの疑問点が浮上した。仏教のことしか分からないが、次のような部分には是非その論拠を引いていただきたいと思う。

お盆の亡くなった人たちがどこから帰ってくるのかとの問いに対して、「仏教僧侶としては、当然阿弥陀の浄土である極楽からと考えるべきなのだろう」(P48)とある。私はそう思わないし、そう思う坊さんがどれだけ居るのだろうか。

また「お釈迦様にとって地獄とは、この世に何度も何度もさまざまな境遇で生まれてくる「輪廻」そのものだった。そして「もう決して生まれかわって来ない者」だけが極楽浄土に生まれるのである。」(P75)とあって、輪廻の苦しみと地獄を同等視してしまっていて、加えて、極楽と解脱まで同じものと捉えていて、余りにも大ざっぱな書き方になっているのは気になる。

さらに、「インドの輪廻観は中国で議論のすえ否定される。だから仏教は、日本には輪廻を抜きにして中国から伝わるわけだが、・・」(P118)ともある。本当だろうか、是非その根拠となる文献を示して欲しいものだ。

檀家さんから「死んだらどうなるんですか?」と問われて、この本のような答え方を宗久師はなさるのであろうか。それではあまりにも、敢えて問うた人を突き放すような感じがするのではと思うのは私だけであろうか。本当はあなたはどう思っているのですか? そのことを聞きたかったのにというのが、私の正直な読後感であった。
コメント (4)
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