住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

改訂 あるべきようは5 (公民館でのお話草稿) 

2005年09月11日 14時32分47秒 | 仏教に関する様々なお話
幸せとは何だろうと思って気楽に読んできて、最後まで来ると何とも厳しい内容が出てきてしまいました。ですが、皆さん、普通幸せというと、一生懸命勉強していい学校に入って、いい会社に入って、出世して、表彰されてと、つまり何かを達成したり、何かになること、欲しい物が手に入ったりと、そんなことが幸せと思ってはいないでしょうか。

曖昧に何か裕福で何でも思い通りになることが幸せだというふうに思いがちではないでしょうか。ですが、地位があったり、裕福な人が必ずしも幸せとも限らないですし、人生ずっと思い通りになるなんてことは絶対にありません。ですから、私たちが漠然と思っている幸せとはあり得ないことなのであり、私たちはどういう事が幸せかということを本当はよく分かっていないのです。

そこで、お釈迦様は、この吉祥経で、幸せとは、人としてなすべきことをきちんと人生の段階に応じて成し終えていくことだよと、その上に自ずとおとずれる何も憂えることのない安らかな心、功徳ある行いをなした充足感であり、その上に求められる覚りとも言うべき至福感といったものであると定義なさっているのです。

大切なのは、このごく当たり前のこと為すべきことを粛々とこなしていくこと。それで何の後悔も憂いもない、善いことをした満足感がある、これまでの歩みに納得している、その上に少し心のことを考えるゆとり、安らぎがある、そんなことが本当の幸せなんだとお釈迦様が言われているわけです。

今日の演題のあるべきようはとは、室町時代の明恵上人の言葉ですが、あるべきようはと題したのは、この吉祥経は、いかにあれば幸せであるかということを示したものであるからです。それで、皆さん一人一人は、この吉祥経の言う4段階の幸せの今どの地点に立っておられるかということです。仏教は過去や未来ではなく、今が大切なのです。過ぎ去った過去を追うなかれ、いまだ来たらぬ未来を思うなかれ、いま為すべきことを熱心に為せと教えられています。

皆さんは、4つの幸せの中の123とそれぞれの段階をクリアしてきて、今4番目の段階におられる。そうですよね。ということはどういうことになるのでしょうか。皆さんはお見受けするところ、間違いなく歳を重ねてこられた方々のように思われます。ですから、皆さんのような善い年の取り方をしてこられた方たちが本当はもっと幸せを実感してもいいのではないか。皆さんご自分で幸せだなぁと思っておられますか。

私たちは、何かあると、たとえば、自分や家族が重い病気になってしまったり、大きな事故にあったりすると、それまでの何もない平凡な日常がいかに幸せなことであったかということに気づくものです。

ですから、今皆さんのあるべきようはとは、今こうしてあることに、少しは楽をさせてもらっていることに、幸せだなぁと実感してくださる、その恵みに気づいてくださることだと思うのです。

そして、もっと、福々しく、お釈迦様の言う幸せの階段を上ってきた者としての風格を持って欲しい。いつもニコニコと周りの人たちに幸せを分けて上げて欲しい、そう思います。お年寄りがニコニコと機嫌良くしておられることが若い者たちにとっての一番の心の励みになります。

何も言わずともただ機嫌良くして覚ったような穏やかなお顔、お姿でいて下さることが皆さんをより大きな存在に見せてくれます。そして、時々何かアドバイスする、優しい言葉で、少しだけみんなの役に立つことをする、ですが、決して若い者たちを見下すような思いを持ってはいけません。若い者たちも居て世の中が成り立っているのですから。

そうしていれば自然と周りの人たちから尊敬され、色々なものが集まって来て、もっと幸せになれるはずです。そうお釈迦様も教えられています。四摂法という教えです。

そして、毎日自分は幸せなんだと思いだして下さること。仏壇に手を合わせるときでも、お風呂に入っているときでも、またお休みになるときでも、一日一回は今の恵み平穏な一日に幸せだなと思っていただく。そうすればその幸せな気持ちを持って来世に行くことが出来ます。このことがとても大事なことです。

それから、もしも、この中でそう言われても毎日退屈で心落ち着かないという方があったなら、これは私からのお願いでもあるのですが、是非少し仏教を研究して欲しいと思います。もう年なのに何を言っているとお思いの方もおられると思いますが。

お釈迦様の晩年、一人の長老に話しかけて、そなたはもういくつになったであろうかと問われたとき、その長老は、もう七十を過ぎているのに、私はやっと四歳になりましたと答えたと言います。それはいかなることであろうか、とお釈迦様が問うと、その長老は、私は歳を取ってやっとお釈迦様の教えに出会い、何とか精進して、覚りを開くことが出来目覚めることが出来ました。そうしてやっと目を開き世の中を見ることが出来ましたと言われたということです。仏教を学ぶのに遅いということはありません。是非これを機会に始めていただきたいと思います。

折角1時間もお話を聞いて下さったのですから、今日の幸せの話、今の自分はお釈迦様の言う幸せの4段階目にいるのだと思って下さって、何もない平穏な一日一日が幸せなのだとその恵みに気づいてくださることをお願いしまして、今日のお話を終えたいと思います。ありがとうございました。
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