住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

歩こう会の皆さんへの法話 2

2005年09月24日 16時47分11秒 | 仏教に関する様々なお話
ところで皆さんは、かつて生徒たちに、強い心を持たなければいけないなんていうことを言われたことはないでしょうか。勉強をしなさい、横道に逸れないように強い心で立ち向かいなさいなどと言われたことはないでしょうか。ですが、その強い心とはどのような心かとお考えになったことがあるでしょうか。

また、私たちには誰でも、そりが合わない人というのがいるものです。他の人なら気にならないのに、その人が挨拶でもしなかったら、何だ、と思う。なんだか自分のことをのけ者にしているのではないか、無視しているのではないか、次々に妄想が膨らみます。それは怒りであり、欲かもしれません。とにかく考えたくなくても考えてしまう。それが人間です。

人間は考える葦であるなどと言いまして。考えることは良いことだと思っていますが、仏教では、それはただ汚れた心のまま勝手な妄想を作っているとしか見ません。それは弱い心であり、煩悩に占領されている状態なのです。

その状態を脱するためには、自らの心を細かく知り、妄想思念が沸いてきたらそれを遮断しなければならない、それを、仏教では念・サティと言います。今読んだ般若心経にも含まれている教えです。

そして、先ほど強い心とは何かと申しましたが、この自らの心をきちんと観察し様々な思いを断ち切ることができてこそはじめて強い心だということになるのではないでしょうか。では、この念の力、自らの心を把握する力を強くするにはどうしたらいいのでしょうか。

そこで、仏教では教えだけではダメですよ、実践が大切ですと、こう言うわけです。歩く瞑想というのがあります。私は、このただ歩いていることを意識しているだけのこの瞑想のやり方をもう随分前に20年ばかり前に知っていました。しかしその意味するところ、その大切さを知ったのは在日スリランカ長老に聞法してからですから、まだ10年ばかりのことです。

こう歩くときに右足が上がります、運びます、下ろしますと心で言ってから動かしていくわけです。身体の動きを心できちんと制御することを学びます。そして坐る瞑想では、心の動きや身体の感覚などもきちんと自らの心で把握し制御することを学ぶわけです。

呼吸するときに膨らむ腹の動きに、「膨らみます」「へこみます」と心の中で言いながら坐ります。何かの音に心がいったら「音」「音」と。何か思い出したら「記憶」「記憶」。身体が熱く感じたら、「暑さ」「暑さ」。各々心が移ったことを知り、言葉でそのことを確認し、また腹の動きに心を戻します。

それでは少し坐ってみましょう。足は、片足股の上に置き、背筋を伸ばし手は腹の前に置いて軽く目を閉じますが、全身の力を抜いて下さい。そして、深呼吸をした後、お腹の動きに心を集中して観察してみましょう。

(坐る瞑想実習5分)

いかがでしたでしょうか、目を閉じ座るとき、思ってもいなかったような様々なものが心に出て参ります。正に妄想思考記憶の類が押し寄せて参ります。それらをきちんと知る、知って断ちきることを学ぶのです。そうして瞑想を重ね、日常にもそのことを意識しつつ実践していますと、自分の心がきちんと分かり、とても冷静で落ち着いた心でいることができます。

またこうした瞑想の前には、私たちがおかれている今ここにあることの恵みに気づき、自分が良くあるためには身の回りの人たちが良くあらねばならず、またそのためには全ての生きとし生けるものも良くあらねばならない。自分も含めそれら全てが幸せであって欲しいという気持ちを表すために慈悲の瞑想をいたします。

(プリント参照・慈悲の瞑想実習10分)

少しは仏教の世界を身近に感じ取っていただけたでしょうか。おそらくこれまで皆さんが思っていた仏教とは違う仏教だなぁと思われたかもしれませんが、少しでも興味を感じていただけましたなら有り難く思います。何か新しいことにチャレンジをしてみようとお思いの方がありましたら、是非仏教を研究してみて欲しいと思います。仏教は素晴らしい教えです。それでは今日の私の話を終わります。
コメント (2)
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