住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

歩こう会の皆さんへの法話

2005年09月23日 06時58分54秒 | 仏教に関する様々なお話
本日は数あるお寺の中から特にこの國分寺にお参り下さいまして、誠に有り難う御座います。國分寺については先祖代々この國分寺を護持して下さっているB先生から懇ろなお話があったことと思いますので、私からは何も申し上げません。

私は6年ほど前にこちらに来たばかりでありまして、お寺に生まれたわけでもありませんから、至ってもの知らずでありますが、幸いなことにこの25年ばかりお釈迦様一筋に生きて参りましたので、その辺のお話を少しさせていただこうかと思っています。

こちらの本尊様は、お薬師さまです。本堂の外には医王閣と扁額にありまして、医王とはお薬師さまのことですが、元々医王と言いますとお釈迦様を意味していました。お釈迦様の教えは、当時の医者の診断処方の仕方と同じであった、またどんな人が行ってもたちどころにその病んだ心が癒えてしまう。そんなところから医王と、医者の中の医者であると言われたわけです。

それで、そのお釈迦様のお徳のその部分だけを取りだして、お姿に薬壺を乗せた仏が薬師如来ということになっています。ですから、仏教辞書などには、薬師如来は釈迦如来の別名とあります。まあ、そんなことはどうでもいいことですが、お薬師さまはお釈迦様と同体であるということで、こんな私にもご縁があったのではないかなどと思ったりしています。

ところで、このご本尊様はお厨子に入ったままで、秘仏ということになっています。日本では特に美しい仏像を見るためにお寺にお参りしたり、わざわざ博物館にまで行ったりします。それなのに、結構多くのお寺が秘仏として扉を閉めています。なぜ秘仏なのでしょうか。

それは、仏様というのは形じゃないよということだそうです。お釈迦様が亡くなって500年間は仏像はなかったのですし、それまでは、菩提樹や仏足跡などでお釈迦様を表現していました。本来形に表すのはとても不遜なこと、とうてい表現できるようなものではないはずのものだからです。

大切なのは仏さんの心だよということなのでしょう。皆さん長年学校の先生を為されていれば、もう随分前から心の時代と叫ばれてきたことをご存知のはずです。ですが、いかがでしょうか。いまだに私たちは物や情報に振り回され、心よりも物や身体に重きを置いてはいないでしょうか。最新式の電気製品、携帯、また健康志向とでも言うのでしょうか、エステやスパとかよく分からないものが流行って、人々を虜にしています。

心が忘れ去られようとしています。ですが、本当はみんな心の仕業なんですね。法句経という古い経典があります。皆さんご存知でしょうか、1951年のサンフランシスコでの対日平和条約締結時に、スリランカの代表が賠償権放棄の演説に引用した、「怨みは怨みによって鎮まること無し、怨みを捨ててこそ怨みは止む、これは世の中の変わらぬ真理である」という偈文でも有名なお経です。

その法句経の第1章の第1偈に、「ものごとは心より起こり、心を主とし、心よりなる。もし汚れた心をもって語り行うときは苦しみがこれにしたがう、車を引く牛に車輪が従うが如し」とあります。

しかしそう言われてもそれがどのようなことを意味しているのかが分からないものです。まあ、そんなものかなぁという程度かもしれません。たとえば、遠くにある電話が鳴り立ち上がるとき、私たちはあっ電話だと思った途端に足が動き歩き出しています。

しかし、本当は、その一瞬の中に意識していなくても、電話の音を耳が聞き、それを電話の音だと知り、出なくてはいけないと判断し、受話器を取るために身体を運ぶために足を動かすという過程を経ているはずです。つまり、行動の初めにはきちんと心が先行しているということなのです。

しかしそんなことをいちいち私たちは意識することはありません。ですが、その為に急いで足の臑をどこかにぶつけてみたり。つまり身体の動きをきちんと意識して自分で制御していないということになります。身体の動きを心が制することも出来ないのですから、何かを目にしたり聞いたり思い出したりして現れる欲や怒りの心にも私たちは気づくことなく、それらに振り回されてしまうことになるのです。つづく

コメント (2)
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