住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

改訂 あるべきようは4 (公民館でのお話草稿) 

2005年09月08日 10時59分57秒 | 仏教に関する様々なお話
そして、林住期、仕事を次第に退きつつ、功徳を積み心の教えを学ぶ時期です。
⑦尊敬と謙遜と、知足と知恩。ときどき、覚れる人の教えを聞くこと。これは最上の吉祥である。
⑧忍耐、忠告を率直に聞く、出家者に会う。ときどき、覚れる人の教えについて話をする。これは最上の吉祥である。

社会生活を営みつつも徐々に一線を退き、後継者に道を譲り、世の中を冷静に眺め心を養っていく時期です。

自分の実績や経歴を誇り高慢になりがちですが、他者を尊敬したり謙遜する徳を身につけることでより深い幸せを感じます。こうした豊かな心を育むためにも足ることを知り、これまでに受けた恩を忘れず、また欲得を超えた心の教えについて学ぶことも大切なことです。

また、人の言うことに耳を傾けたり、お坊さんなどと親しく話すことを通じて、自分の経験や技術、時間などを生きとし生けるものの為に生かすことで、より一層の幸せを感じられるようになります。

そして、遊行期、社会生活を離れ安らかな心の幸せを求める時期。
⑨心の鍛錬、自分の心を知るという実践、神聖なる真理を見ること。覚りの世界を明らかにすること。これは最上の吉祥である。
⑩俗世間のことに触れても心が動揺せず、憂い無く、汚れなく、安らかである。これは最上の吉祥である。

定年をして、なおかつ仕事を持つ人も多いとは思いますが、出来れば仕事を離れ、残りの人生を心静かに過ごすことも必要なことです。

定年後は一人四国遍路を歩くという人も多くなっているとのことですが、そうして、社会生活を離れ、自らの心を知るように励むことが何ものにも依存しない最高の幸せを求めていくことにつながります。人として人生の意味を感じ、永遠の幸せである覚りをも求めることに繋がります。

利益や不利益、苦や楽、賞賛や非難、名誉や不名誉などといった俗世間の損得にも心動かされることなく、憂い、貪り、怒り、妬み、おごり、偽善といった心の汚れが現れなくなり、安らかな幸せが得られるのです。

ここまでの内容をひとまとめにすると、そこにありますように、
 [1]人として知識や技能を身につけ生きる力を蓄えることによる幸せ、 
 [2]正しい仕事によって財を得て家族や社会を養い、善行を習慣とすることによる幸せ、
 [3]生きとし生けるもののために善い行いをして、なおかつこれまでと違う次元のことに関心を向ける幸せ、
 [4]なにものにもとらわれない清らかな心の幸せ、
というそれぞれの段階に応じた幸せがあることが分かります。

最終的には、結局覚りということが人生の目標だよということなのかもしれませんね。幸せを求めるならそこまで行って下さい。中途半端なところで満足しないで下さい。そういうことなのだと思います。

つまり先ほども言ったように、日本の仏教では人が亡くなると戒名を付けて引導を渡す訳ですが、それは、おそらくこのこと、人は最後、死に際にはなってしまったけれども、戒名を付け出家させ、覚りという最高の幸せを求めて来世に旅立っていって下さいという願いが込められているのではないか、そんなふうにも思えるのです。つづく
コメント
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