先日ある葬儀社から電話があり、「亡くなった人があるから枕経に来てはくれまいか」ということでした。即座に「お寺の檀徒になって下さらないといけないのですが、いかがでしょうか」と問うと、そのようにすると言われている、とのことでした。
そこで、枕経に伺ったところ、先に亡くなられた方の、生年やら生前の人となりを聞いていると、喪主さんから気にかかっていた葬儀に係る費用について質問があり、結局、それなら結構ですということで、お経もあげずに帰って参りました。
お寺を葬祭関係の便利屋だと思っておられるのか、死んだときだけ来てもらえればいいと思われているのかとも思えました。葬儀屋さんの下請けとでもお考えなのかと思うと閉口します。お寺とは何か。坊さんの仕事とは何か。そんなことを改めて考えさせられました。
今日、寺の役割は誠に限定したものとなっているような印象を誰もが持っているようです。葬式法事、先祖供養の法要がお寺の主たる業務とでも言える現状なのかもしれません。だとすれば、電話で人が亡くなったからといって、出前を取るように坊さんを呼べばいいと思われても仕方ないことなのかもしれません。
私たち僧侶にとって、誠に原初的な問いかけを自らにすべき問題なのかもしれません。私は何のために僧侶なのかと。私は何をするために坊さんになったのか。そのことに自らはっきりと答えを出すことによって初めて、お寺のあり方、僧侶の役割、葬式に対する姿勢について答えうるのではないかと思います。
もしも、僧侶としてただ葬式法事が自分の業務であると思うような人が万が一いたとしたなら、その人は、お経をあげたとしても、その問いに答えることは出来ないでしょう。出家の目的とは何かをはっきりと自覚することによって初めて亡くなった人にも剃髪させ、戒を授け、引導を渡すことも出来るのではないでしょうか。葬式は日本においては、正に出家の儀礼そのものなのですから。
僧侶は、本来自ら悟りを求めるため、ないし自己研磨のために出家するものだと言われます。だとするならば、お寺は修行をする場であり、単に儀礼の執行者、建物の管理人の住処などではないのは当たり前のことです。
お寺は、それぞれの僧侶の修行に加え、縁ある人たちにその修行の法味をお分けするために、また多くの人々の幸せのためにも様々な活動をしなければなりません。布教をしたり、様々な行事を通じて教えを伝えていくことも大切なことです。そして今日ではお寺にとって、お寺の建物を整備し、僧侶の生活を支えつつ、仏教徒として教えを学び、お寺の活動を支援する多くの信仰者を必要とします。
その信仰する人々にとって、そのことは、つまりお寺を護持するということは、自らの良い来世を迎えるために、また先祖の供養のためにも、とても大きな功徳となるものです。その功徳を得る人々こそがお寺の檀徒であり、お寺を維持発展させていく大切な人たちです。
そして、お寺にとって大切なその方々の中に万が一不幸があったならば、お寺に住持する僧侶が馳せ参じ、死後の冥福を祈り、来世での行く末を案じ引導を懇ろに渡すのは当然のことです。誰かが亡くなったときに葬式を頼まなくてはいけないからお寺があるわけではないのです。
このお寺と檀徒、住持する僧と檀徒との自然な信頼関係、お互いに思いやる関係こそが寺檀制度となり今日に至っているものなのだと思います。この寺檀制度、檀家制度は江戸時代には法で縛られたものでしたが、今日では法による拘束力はありません。ですから、仏教の教えやお寺が嫌ならいつ離檀しても差し支えないのです。
しかし今日まで、江戸時代から結ばれたこの関係がこうして21世紀にまでほぼそのままに維持されているのは、このあり方が人の死という場面での安心とともに日常にも檀那寺がある安心感、先祖代々支えてきたお寺があるという誇り、そして勿論そのお寺の様々な活動、教えを受け入れ心の安寧を得ているということを多くの日本人が感じているからなのだと思えます。
今日、そのことに甘え、本来のあるべき姿を忘れてしまった僧侶が多いことも事実のようです。何よりも、私自身が本気で悟りを求め修行に打ち込んでいるのかと問われることなのでしょう。日常の雑事に流される中で、常に自問し続けていかねばならないことなのだと思います。
また例え檀那寺があったとしても仏教徒としての意識も希薄で、仏教ばかりか宗教に価値を見出し得ない人々も多い世の中です。今一度、檀那寺を持つ人も持たない人も、生きるとはいかなることか、いかに死を迎えるべきか、お寺とは何か、ということをあらためて自らに問い直して欲しいものだと思います。
そこで、枕経に伺ったところ、先に亡くなられた方の、生年やら生前の人となりを聞いていると、喪主さんから気にかかっていた葬儀に係る費用について質問があり、結局、それなら結構ですということで、お経もあげずに帰って参りました。
お寺を葬祭関係の便利屋だと思っておられるのか、死んだときだけ来てもらえればいいと思われているのかとも思えました。葬儀屋さんの下請けとでもお考えなのかと思うと閉口します。お寺とは何か。坊さんの仕事とは何か。そんなことを改めて考えさせられました。
今日、寺の役割は誠に限定したものとなっているような印象を誰もが持っているようです。葬式法事、先祖供養の法要がお寺の主たる業務とでも言える現状なのかもしれません。だとすれば、電話で人が亡くなったからといって、出前を取るように坊さんを呼べばいいと思われても仕方ないことなのかもしれません。
私たち僧侶にとって、誠に原初的な問いかけを自らにすべき問題なのかもしれません。私は何のために僧侶なのかと。私は何をするために坊さんになったのか。そのことに自らはっきりと答えを出すことによって初めて、お寺のあり方、僧侶の役割、葬式に対する姿勢について答えうるのではないかと思います。
もしも、僧侶としてただ葬式法事が自分の業務であると思うような人が万が一いたとしたなら、その人は、お経をあげたとしても、その問いに答えることは出来ないでしょう。出家の目的とは何かをはっきりと自覚することによって初めて亡くなった人にも剃髪させ、戒を授け、引導を渡すことも出来るのではないでしょうか。葬式は日本においては、正に出家の儀礼そのものなのですから。
僧侶は、本来自ら悟りを求めるため、ないし自己研磨のために出家するものだと言われます。だとするならば、お寺は修行をする場であり、単に儀礼の執行者、建物の管理人の住処などではないのは当たり前のことです。
お寺は、それぞれの僧侶の修行に加え、縁ある人たちにその修行の法味をお分けするために、また多くの人々の幸せのためにも様々な活動をしなければなりません。布教をしたり、様々な行事を通じて教えを伝えていくことも大切なことです。そして今日ではお寺にとって、お寺の建物を整備し、僧侶の生活を支えつつ、仏教徒として教えを学び、お寺の活動を支援する多くの信仰者を必要とします。
その信仰する人々にとって、そのことは、つまりお寺を護持するということは、自らの良い来世を迎えるために、また先祖の供養のためにも、とても大きな功徳となるものです。その功徳を得る人々こそがお寺の檀徒であり、お寺を維持発展させていく大切な人たちです。
そして、お寺にとって大切なその方々の中に万が一不幸があったならば、お寺に住持する僧侶が馳せ参じ、死後の冥福を祈り、来世での行く末を案じ引導を懇ろに渡すのは当然のことです。誰かが亡くなったときに葬式を頼まなくてはいけないからお寺があるわけではないのです。
このお寺と檀徒、住持する僧と檀徒との自然な信頼関係、お互いに思いやる関係こそが寺檀制度となり今日に至っているものなのだと思います。この寺檀制度、檀家制度は江戸時代には法で縛られたものでしたが、今日では法による拘束力はありません。ですから、仏教の教えやお寺が嫌ならいつ離檀しても差し支えないのです。
しかし今日まで、江戸時代から結ばれたこの関係がこうして21世紀にまでほぼそのままに維持されているのは、このあり方が人の死という場面での安心とともに日常にも檀那寺がある安心感、先祖代々支えてきたお寺があるという誇り、そして勿論そのお寺の様々な活動、教えを受け入れ心の安寧を得ているということを多くの日本人が感じているからなのだと思えます。
今日、そのことに甘え、本来のあるべき姿を忘れてしまった僧侶が多いことも事実のようです。何よりも、私自身が本気で悟りを求め修行に打ち込んでいるのかと問われることなのでしょう。日常の雑事に流される中で、常に自問し続けていかねばならないことなのだと思います。
また例え檀那寺があったとしても仏教徒としての意識も希薄で、仏教ばかりか宗教に価値を見出し得ない人々も多い世の中です。今一度、檀那寺を持つ人も持たない人も、生きるとはいかなることか、いかに死を迎えるべきか、お寺とは何か、ということをあらためて自らに問い直して欲しいものだと思います。