住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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日本仏教の歩み8

2005年12月26日 17時36分40秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座にわかりやすい仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

室町時代から安土桃山時代までの仏教

鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を経て室町幕府が興り、応仁の乱を経て戦国時代に入り、やがて信長秀吉の時代を迎える戦乱の世に、仏教がどのように時代に関わったのか見てまいりましょう。

建武の新政

天皇制の歴史の中で稀な天皇親政を実現した後醍醐天皇(在位一三一八ー一三三九)は、地方武士のほか天台真言や興福寺などの寺院勢力をも味方に付けていました。中でも真言僧文観(一二七八ー一三五七)は後醍醐天皇の帰依を受け醍醐寺座主となり、鎌倉幕府倒幕を祈祷。後醍醐天皇は倒幕を果たし、新政を実現します。

しかし京都の治安は乱れて政治は混乱し、足利尊氏が兵を挙げて光明天皇を擁立すると、三年足らずで新政は崩壊。後醍醐天皇は逃れて行宮を営み、吉野と京都に朝廷が両立し、全国の武士も両勢力に別れて抗争が続く南北朝時代が到来します。後醍醐天皇は、文観を側近の一人として吉野や河内にも随行させました。
  
室町幕府と臨済宗

京都に幕府を開いた尊氏は、鎌倉幕府滅亡や南北朝の動乱で死んだ人々の怨霊を何よりも恐れていました。そこで帰依していた南禅寺の夢窓疎石(一二七五ー一三五一)に勧められ、諸国に安国寺と利生塔を建立し、敵味方一切の霊を弔う怨親平等の精神に基づく鎮魂を祈らせ、後醍醐天皇追悼のため京都に総安国寺として天竜寺を建立。安国寺は既存の禅刹を安国寺と認定し、利生塔は真言天台律などの旧仏教寺院により新たに建立されました。

幕府は、一三四二年南宋の官寺に倣い「五山十刹の制」を定めます。南禅寺を五山の上に置き、天竜寺、建仁寺、東福寺など五山と格付けされた寺院では、五山文学と言われる自らの修養の境涯を漢詩に表現する漢詩文や儒学などの研究が盛んでした。

夢窓門下の春屋妙葩は、三代将軍義満によって禅宗寺院僧侶を管理する「僧録」に任ぜられ、諸禅寺の住職任免、所領寄進などの行政的権力を与えられます。義満は京都と鎌倉にそれぞれ五山を定め、臨済宗は室町幕府の官寺と化し、大勢力を築きます。また、当時多く来朝していた中国の禅僧と交流し中国語に堪能であった禅僧に外交文書を作成させ、また中国に外交官としても派遣しています。
 
室町文化と時宗

臨済禅の宗風は文学だけでなく、書画や印刷、建築、彫刻、造園術なども明からもたらします。

枯淡の美を追究する水墨画が流行して雪舟など山水画に卓越した禅僧が現れ、また、その後の出版物の模範となる五山版と言われる木版本によって禅籍や詩文集が印刷されました。

苔寺で有名な西芳寺庭園は夢窓らによって造営された山水画の趣向をいれた禅宗庭園で、枯山水・竜安寺の石庭もこの時代に造営されたものでした。

また、八代将軍義政によって、鹿苑寺銀閣など後の住宅建築の原型となる書院造りが発達します。茶の湯も、義政が書院の茶として禅の精神を茶に取り入れ始めたもので、侘び茶として町衆や公家・武家に広まり、後に千利休が登場し大成します。

時宗は、遊行回国を行う一方、各地に道場を設けて信徒を組織して農民や在地小武士らにも教えが広まります。また従軍して負傷者を看取り、戦没者を弔う陣僧としての役割を担い、軍旅を慰める興を催す活動から阿弥衆として芸能文化の創造に関わることとなり、室町文化を支える役割を果たします。猿楽師観阿弥・世阿弥の父子は時宗の徒と伝えられ、将軍家の庇護のもとに能を大成しました。能の芸道を「風姿花伝」などに残しています。 つづく
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