住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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日本仏教の歩み10

2005年12月28日 06時50分45秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
信長の叡山焼き討ち

天台宗では、皇族や摂関家出身者を延暦寺座主に迎えて祈祷や修法に努め、また学者も輩出し念仏も盛んに行われます。

西教寺の真盛(一四四三ー一四九五)は、戒を重んじた称名念仏を説いて、後土御門天皇の帰依を受け、天皇はじめ公家たちに源信の「往生要集」や浄土経典を講じています。各地に百あまりの不断念仏道場を開き数多の帰依を受けました。

しかし、一方で比叡山には暴逆な衆徒が僧兵となり、真宗など新しい宗派の進出を圧迫して戦乱を起こしていました。一五四三年、ポルトガル人によって鉄砲が伝えられると、いち早く導入した織田信長が諸大名を破って上洛を果たします。

信長は、なおも激しく抵抗を続ける寺院勢力の根源を抑えるため寺院所領の削減を図ります。真っ先に削られた延暦寺は、それを不服として朝廷に訴え出ますが、浅井・朝倉勢を匿ったことに端を発して、信長は一五七一年比叡山の堂塔を焼き払い僧俗三千人を殺戮。

さらに、徹底抗戦していた各地の一向一揆をも平定。最後まで抵抗していた石山本願寺も一五八〇年に開城し、一向一揆もここに終息します。

秀吉の根来・高野山征伐

真言宗でも応仁の乱の後、高野山や根来山では学僧とは別に経済的運営を司る行人と呼ばれる僧らが寺領を守るため自ら武器を取って僧兵化します。しかし彼らは寺領保護の名目で他領を横領し、一時高野は百万石、根来は七十万石を領していたと言われます。

高野山は信長に反逆した浪士を匿い、信長と対立します。ときあたかも戦国武将の間を隠密として徘徊する聖衆があり、信長は高野聖千人あまりを捕らえ処刑。さらに、一五八一年信長は高野征伐を決し、十三万の軍勢を配して高野山を包囲、攻撃します。これに対し山上では防戦と降伏修法の祈祷に努め陥落せず。翌年、信長は京都本能寺で明智光秀の夜襲により客死します。

信長の後を継いだ秀吉は、一五八五年十万の兵とともに根来山を攻め、大小二千七百の全伽藍を焼き払い、これにより根来山は貴重な聖教重宝の数々を失いました。

この時、玄宥、専誉の両学匠は数百の学僧を引き連れてかろうじて高野山に逃れ、後に京都智積院と奈良長谷寺を本山とする真言宗智山豊山の両派に分立します。

秀吉は根来山攻めの後、高野山にも迫ります。高野山客僧・木食応其(一五三六ー一六〇八)は秀吉の陣中にいたり赤心から一山の無事を請い願い上げます。これに感動した秀吉は、自らの祈願のため存続を許し、逆に一万石を寄進。一五九四年には自ら諸侯を率いて登山して大法要を営み、さらに生母供養のため青厳寺(現在の金剛峯寺)を建立しています。

キリシタンの波紋と秀吉の宗教政策

反宗教改革の戦いを挑む尖鋭集団であったイエズス会の創設メンバーの一人フランシスコ・ザビエルが鉄砲伝来の六年後に九州に上陸。キリスト教を伝えます。そしてその後、数十年の間キリスト教の布教が行われました。

イエズス会は、日本の神仏信仰を偶像崇拝だとして批判。仏教僧、特に禅僧との論争を早くから展開します。仏教側の唱える輪廻思想に対しキリスト教は創世説を説き、万物の創造者を認めるか否かで議論が分かれたと言われています。

信長は、寺院勢力を押さえ込み、世界の情勢を手にするためキリスト教の布教を許可。そして、京都に南蛮寺(教会)、安土には日本人聖職者養成のためのセミナリオ(神学校)の建設を認めます。

布教を認めた大名の港には貿易船が入港し布教と貿易が一体となっており、さらにキリシタン大名大村純忠が長崎を教会領として寄進したことを知ると、一五八七年、秀吉は「日本は神仏国であり、日本の神を認める仏教と認めようとしないキリスト教とは氷炭相反する」としてキリスト教の布教を禁じ、バテレン(宣教師)追放令を発布します。

秀吉は、太閤検地(一五八二)によって土地制度を一新してすべての寺領を没収し、後に由緒確かな所領のみ寄進名目で返還。本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助します。

そして、一五八九年奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立。亡き父母の供養として大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養(一五九五)を行いました。しかし、これら一連の施策は仏教界全体の懐柔を目論むものであったと言われています。


鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで深く浸透する一方、この時代の仏教は世の中の移り変わりに対応し、また抗いながらも体制に飲み込まれていく先駆けとなりました。
コメント (2)
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