曹洞宗の発展
幕府公認の臨済禅は次第に一般武士や商工業者などとの関係が薄れたのに比べ、曹洞宗は、天台真言の寺院を禅に改宗させることによって発展し民衆に禅を広めます。
瑩山紹瑾(一二六八ー一三二五)が出て、能登永光寺と総持寺を改宗。特に密教との兼修禅を広め、儀式を重んじ祈祷を取り入れて念仏も否定せず、現世利益信仰をも吸収して教団が飛躍的に発展します。
室町時代後半、戦国の世になると臨済禅の間隙をぬって教線を拡大し各地地頭、領主など武士を支持者にして全国に広まりました。
浄土宗の発展
法然歿後二十あまりの流派に分かれていた浄土宗では、法然の弟子で、平生の多念の念仏を重んじる弁長の流派から聖冏(一三四一ー一四二〇)が出て、浄土宗の教義を大成。独立した一教団としての基礎を築きます。関東地方へ布教して信徒を獲得し教団を拡張しました。
弟子の聖聡は常陸や千葉の領主の保護を獲得し、江戸に増上寺を建立。浄土宗寺院は全国の在地領主たる武士団の援助のもとに建立され、菩提寺として発展していきます。
また、皇室の浄土宗への帰依は非常に深く、浄土教に深い知識のある僧侶に帰依して教えを受けています。清浄華院等煕は、一四六二年国師号を後花園天皇から賜り、一四六九年には知恩寺の法誉が朝廷の命令で天下泰平・国家安全・宝祚長久を祈祷しています。
応仁の乱と一向一揆
一三九二年、義満の時代に南北朝の和議が交わされ、後亀山天皇が京都大覚寺に入り南朝が解消。これによって武家の分裂は収まります。しかし、長期の戦乱で生命と財産が脅かされ重税に苦しむ農民は数か村が連帯して領主に対抗する土一揆を起こすようになります。
さらに、八代義政の後嗣争いから応仁の乱(一四六七~一四七七)が起こると、京都から各地へ戦乱が広がり激しい戦いが展開されました。京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退していきました。そして、和議成立後も幕府は有名無実の存在となり、ついに群雄割拠の戦国時代が訪れます。
親鸞亡き後、三派に分かれた浄土真宗(一向宗とも呼ばれる)では、覚如が出て、大谷本廟を中心とした本願寺が成立し、教団を立て直します。さらに蓮如(一四一五ー九九)は、教義をわかりやすい文章にしたためた「御文」と寄り合い組織・講によって北陸、東海、近畿の手工業者や農民に布教し、現在にいたる真宗教団の発展を基礎づけたと言われています。
蓮如は、職業の差別無く、どんな悪人でも一念発起の信心の定まるとき往生が決定し、その信心を得た者は如来に等しいなどと、親鸞の教えの要点を巧みに説きました。
そして、多くの信徒を獲得するようになると比叡山衆徒に襲撃され、蓮如は北陸の吉崎に本願寺を建立。その隆盛を見た加賀の守護富樫政近は、本願寺を攻撃、蓮如は逃れ京都山科に本願寺を建設します。その後本願寺門徒の一向一揆は政近を敗死させ、一四八八年加賀国は本願寺領となり、一世紀あまり土豪や農民と僧侶が合議制によって統治しました。
法華一揆
応仁の乱後、焦土から復興した京都の町は、幕府権力の低下により、武装化した町衆による自衛が計られます。法華(日蓮)宗は鎌倉末期に京都に布教して以来、しだいに勢力を拡大、戦国時代中期には洛中に大寺院が多く建てられ、豪壮な寺域を擁していました。
一向一揆が京都に迫ると、細川晴元らと結んで法華門徒が蜂起。生活と財産防衛のため町衆が法華の信仰と結びつき二年に亘り戦い、法華宗門徒による京都防衛は成功します。
しかし、一五三六年比叡山衆徒が法華宗追放を決議すると興福寺や六角氏の援兵により寺院を焼かれた法華宗側は敗北し、京都の法華各寺院は堺に逃れました。
つづく
幕府公認の臨済禅は次第に一般武士や商工業者などとの関係が薄れたのに比べ、曹洞宗は、天台真言の寺院を禅に改宗させることによって発展し民衆に禅を広めます。
瑩山紹瑾(一二六八ー一三二五)が出て、能登永光寺と総持寺を改宗。特に密教との兼修禅を広め、儀式を重んじ祈祷を取り入れて念仏も否定せず、現世利益信仰をも吸収して教団が飛躍的に発展します。
室町時代後半、戦国の世になると臨済禅の間隙をぬって教線を拡大し各地地頭、領主など武士を支持者にして全国に広まりました。
浄土宗の発展
法然歿後二十あまりの流派に分かれていた浄土宗では、法然の弟子で、平生の多念の念仏を重んじる弁長の流派から聖冏(一三四一ー一四二〇)が出て、浄土宗の教義を大成。独立した一教団としての基礎を築きます。関東地方へ布教して信徒を獲得し教団を拡張しました。
弟子の聖聡は常陸や千葉の領主の保護を獲得し、江戸に増上寺を建立。浄土宗寺院は全国の在地領主たる武士団の援助のもとに建立され、菩提寺として発展していきます。
また、皇室の浄土宗への帰依は非常に深く、浄土教に深い知識のある僧侶に帰依して教えを受けています。清浄華院等煕は、一四六二年国師号を後花園天皇から賜り、一四六九年には知恩寺の法誉が朝廷の命令で天下泰平・国家安全・宝祚長久を祈祷しています。
応仁の乱と一向一揆
一三九二年、義満の時代に南北朝の和議が交わされ、後亀山天皇が京都大覚寺に入り南朝が解消。これによって武家の分裂は収まります。しかし、長期の戦乱で生命と財産が脅かされ重税に苦しむ農民は数か村が連帯して領主に対抗する土一揆を起こすようになります。
さらに、八代義政の後嗣争いから応仁の乱(一四六七~一四七七)が起こると、京都から各地へ戦乱が広がり激しい戦いが展開されました。京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退していきました。そして、和議成立後も幕府は有名無実の存在となり、ついに群雄割拠の戦国時代が訪れます。
親鸞亡き後、三派に分かれた浄土真宗(一向宗とも呼ばれる)では、覚如が出て、大谷本廟を中心とした本願寺が成立し、教団を立て直します。さらに蓮如(一四一五ー九九)は、教義をわかりやすい文章にしたためた「御文」と寄り合い組織・講によって北陸、東海、近畿の手工業者や農民に布教し、現在にいたる真宗教団の発展を基礎づけたと言われています。
蓮如は、職業の差別無く、どんな悪人でも一念発起の信心の定まるとき往生が決定し、その信心を得た者は如来に等しいなどと、親鸞の教えの要点を巧みに説きました。
そして、多くの信徒を獲得するようになると比叡山衆徒に襲撃され、蓮如は北陸の吉崎に本願寺を建立。その隆盛を見た加賀の守護富樫政近は、本願寺を攻撃、蓮如は逃れ京都山科に本願寺を建設します。その後本願寺門徒の一向一揆は政近を敗死させ、一四八八年加賀国は本願寺領となり、一世紀あまり土豪や農民と僧侶が合議制によって統治しました。
法華一揆
応仁の乱後、焦土から復興した京都の町は、幕府権力の低下により、武装化した町衆による自衛が計られます。法華(日蓮)宗は鎌倉末期に京都に布教して以来、しだいに勢力を拡大、戦国時代中期には洛中に大寺院が多く建てられ、豪壮な寺域を擁していました。
一向一揆が京都に迫ると、細川晴元らと結んで法華門徒が蜂起。生活と財産防衛のため町衆が法華の信仰と結びつき二年に亘り戦い、法華宗門徒による京都防衛は成功します。
しかし、一五三六年比叡山衆徒が法華宗追放を決議すると興福寺や六角氏の援兵により寺院を焼かれた法華宗側は敗北し、京都の法華各寺院は堺に逃れました。
つづく