真言宗ではよく即身成仏(そくしんじょうぶつ)ということを言う。他の教え、つまり顕教(けんぎょう)という密教以外の教えが三劫(さんごう)という果てしない時間の末にしか成仏できないといわれるのに比べ、誠に優れた即身成仏できる教えが真言密教であるという。弘法大師は「即身成仏義」という書を著して様々な論証をされ、それに基づいて後生の学僧が研究されてきた。
はたしてこの即身成仏とはいかなる教えなのか。それらの研究書では専門用語ばかりか、説かれる言葉も難しく、引用される経論は更に難しい。その真義をくみ取り、今の時代にどう、そのメッセージを私たちは受け取るべきなのか。長い間、私にとってのペンディング事項の一つであった。
ずっとそのままになっていたのだが、つい一昨日だったか、朝のお勤めの後坐禅をしていて閃いた。閃いただけだから、これが即身成仏の解釈である、などと言えるようなものではない。ただ、今の私にとって即身成仏とはこういうこととして受け取ったらいかがであろうか、というにすぎないことをお断りしておく。
即身成仏は古来、大きく三つの意味に取れるという。一つは、「すなわち身、なれる仏」と読み、この宇宙森羅万象すべてが仏の現れとしてみる立場から、私たち人間も含めたすべてのものは、そのまま仏であると解釈する。
しかし普通、私たち凡夫は沢山の悩み苦しみを抱えて自らを仏とは思えないものなので、速疾に成仏できるとする密教の修法が必要となる。そこで二つめは、「身に即して仏となる」と読み、煩悩に覆われて隠れている仏を開き見るために、凡夫は身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を想う三密の修行をもって仏と一体となる境涯を一時的に体験する。
そして、三つ目が、「すみやかに身、仏となる」と読んで、その一時的な境涯を絶えず積み重ねることで、常に四六時中仏と一つになり仏の働きを生きることができるとする。これが真言密教における伝統的解釈のようだ。
しかし、人間そう簡単に理論どおりに生きることもできなければ、継続する忍耐にも欠けている。密教の修法も専門に修行する僧侶としてならいくらもできようが、一般在家の人々には及びもつかない。
それでも即身成仏というその意味するところが現代の私たちにとってまったくナンセンスなこととも言えまい。この言葉を、凡夫の一人である私たちは、それでも意味あるメッセージとしてどのように受け取ったらよいのであろうか。
さて、即身成仏が言われる前には三劫成仏が唱えられていた。三劫もの時間を経なければ成仏できないというと、果てしない後の世に向けて私たちはどうしたらよいのか皆目見当もつかないということになる。
劫とは、牛車で1日行く距離を一辺の長さとする大きさの四角の石を百年に一度薄い布で払ってその石がなくなってもその劫は終わらないというほどの長い時間を言う。三劫成仏とは、その劫が三回経過してやっと人は悟りが開けるというのだから、無理ですと言われているのに等しい。
それに対して即身成仏という言葉が使われたのであるから、そんなに先のことと思わずに、速やかに悟れるのだから、今この瞬間を真剣に、大切にしなさいということではないか、と私は思う。たとえば、来年受験するからさかのぼって今の時期はこれとあれと勉強しなければと思うのであって、それが10年も20年も先に受験があると思えば、何のことはない毎日遊んで暮らしてしまうであろう。
悟りもそれと一緒で、今という思いが大切だということなのではないか。明日でもなく、今日の、それも今ということではないかと思う。即身とは、今この自分において、ということだろう。今この自分において悟りということと真剣に向き合って生きよ、ということではないか。
悟りというと何か縁遠いことに思われるかもしれない。しかし、悟りとは最高の幸せのことであって、誰もが求める幸せの最高のものだと思っていただいたらいかがであろう。お釈迦さまは、自らその最高の幸せである、何者にも依存しない、何にもわずらわされることのない、安穏な境地に至られた。それを成仏と言う。だから死んだら成仏するということでは勿論ない。
だから今この自分の悟りに真剣になるということは、自分が今本当に幸せであるように生きよ、ということではないか。ではどうすれば本当に心から幸せだと思えるだろうか。今幸せであるようにとは、今さえよければいいという先々のことを考えない刹那主義のことではない。
また、自分だけ良くあればいい、自分だけ喜べればいい、一人幸せな気分を味わえば満足だということでもないだろう。少しも空しさが残らないように、後悔が少しでもないようにするには、やはり自分も家族も周りの人たちも、みんな良くあることが必要になるであろう。
周りの人々がにこやかに幸せな顔をしていて、はじめて心からの満足感、幸福感が沸いてくるのではないか。周りの人たちに何か自分がして喜んでもらう、善いことをした満足感、役に立ってうれしく思う、そうしてはじめて今のこの自分の幸せを手にできる。もちろん、そのためには自分もその立場に応じて、しっかり生きていなければいけないだろう。そうして身近な小さい幸せかもしれないけれども、その積み重ねが本当の幸せということに繋がるのではないか。
仏教では、身と口と心のなすことを行いという。その瞬間瞬間のそれらの行いがすべて業となり、後の自分をつくっていく。今がやはり大切なのだ。だから明日ではなく、10年先でもなく、死んでからでもなく、来世でもなく、今を真剣に最高に幸せに生きようではないか、というメッセージとして即身成仏という言葉を受け取ってはいかがなものかと思うのである。
日記@BlogRanking
はたしてこの即身成仏とはいかなる教えなのか。それらの研究書では専門用語ばかりか、説かれる言葉も難しく、引用される経論は更に難しい。その真義をくみ取り、今の時代にどう、そのメッセージを私たちは受け取るべきなのか。長い間、私にとってのペンディング事項の一つであった。
ずっとそのままになっていたのだが、つい一昨日だったか、朝のお勤めの後坐禅をしていて閃いた。閃いただけだから、これが即身成仏の解釈である、などと言えるようなものではない。ただ、今の私にとって即身成仏とはこういうこととして受け取ったらいかがであろうか、というにすぎないことをお断りしておく。
即身成仏は古来、大きく三つの意味に取れるという。一つは、「すなわち身、なれる仏」と読み、この宇宙森羅万象すべてが仏の現れとしてみる立場から、私たち人間も含めたすべてのものは、そのまま仏であると解釈する。
しかし普通、私たち凡夫は沢山の悩み苦しみを抱えて自らを仏とは思えないものなので、速疾に成仏できるとする密教の修法が必要となる。そこで二つめは、「身に即して仏となる」と読み、煩悩に覆われて隠れている仏を開き見るために、凡夫は身に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を想う三密の修行をもって仏と一体となる境涯を一時的に体験する。
そして、三つ目が、「すみやかに身、仏となる」と読んで、その一時的な境涯を絶えず積み重ねることで、常に四六時中仏と一つになり仏の働きを生きることができるとする。これが真言密教における伝統的解釈のようだ。
しかし、人間そう簡単に理論どおりに生きることもできなければ、継続する忍耐にも欠けている。密教の修法も専門に修行する僧侶としてならいくらもできようが、一般在家の人々には及びもつかない。
それでも即身成仏というその意味するところが現代の私たちにとってまったくナンセンスなこととも言えまい。この言葉を、凡夫の一人である私たちは、それでも意味あるメッセージとしてどのように受け取ったらよいのであろうか。
さて、即身成仏が言われる前には三劫成仏が唱えられていた。三劫もの時間を経なければ成仏できないというと、果てしない後の世に向けて私たちはどうしたらよいのか皆目見当もつかないということになる。
劫とは、牛車で1日行く距離を一辺の長さとする大きさの四角の石を百年に一度薄い布で払ってその石がなくなってもその劫は終わらないというほどの長い時間を言う。三劫成仏とは、その劫が三回経過してやっと人は悟りが開けるというのだから、無理ですと言われているのに等しい。
それに対して即身成仏という言葉が使われたのであるから、そんなに先のことと思わずに、速やかに悟れるのだから、今この瞬間を真剣に、大切にしなさいということではないか、と私は思う。たとえば、来年受験するからさかのぼって今の時期はこれとあれと勉強しなければと思うのであって、それが10年も20年も先に受験があると思えば、何のことはない毎日遊んで暮らしてしまうであろう。
悟りもそれと一緒で、今という思いが大切だということなのではないか。明日でもなく、今日の、それも今ということではないかと思う。即身とは、今この自分において、ということだろう。今この自分において悟りということと真剣に向き合って生きよ、ということではないか。
悟りというと何か縁遠いことに思われるかもしれない。しかし、悟りとは最高の幸せのことであって、誰もが求める幸せの最高のものだと思っていただいたらいかがであろう。お釈迦さまは、自らその最高の幸せである、何者にも依存しない、何にもわずらわされることのない、安穏な境地に至られた。それを成仏と言う。だから死んだら成仏するということでは勿論ない。
だから今この自分の悟りに真剣になるということは、自分が今本当に幸せであるように生きよ、ということではないか。ではどうすれば本当に心から幸せだと思えるだろうか。今幸せであるようにとは、今さえよければいいという先々のことを考えない刹那主義のことではない。
また、自分だけ良くあればいい、自分だけ喜べればいい、一人幸せな気分を味わえば満足だということでもないだろう。少しも空しさが残らないように、後悔が少しでもないようにするには、やはり自分も家族も周りの人たちも、みんな良くあることが必要になるであろう。
周りの人々がにこやかに幸せな顔をしていて、はじめて心からの満足感、幸福感が沸いてくるのではないか。周りの人たちに何か自分がして喜んでもらう、善いことをした満足感、役に立ってうれしく思う、そうしてはじめて今のこの自分の幸せを手にできる。もちろん、そのためには自分もその立場に応じて、しっかり生きていなければいけないだろう。そうして身近な小さい幸せかもしれないけれども、その積み重ねが本当の幸せということに繋がるのではないか。
仏教では、身と口と心のなすことを行いという。その瞬間瞬間のそれらの行いがすべて業となり、後の自分をつくっていく。今がやはり大切なのだ。だから明日ではなく、10年先でもなく、死んでからでもなく、来世でもなく、今を真剣に最高に幸せに生きようではないか、というメッセージとして即身成仏という言葉を受け取ってはいかがなものかと思うのである。
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