次の日は、5時頃起きた。誰かお参りに来ても、外で迎えられるように、目を覚ますとすぐさま荷物もろとも外に出た。薄暗い中で顔を洗い、衣を着込む。寝袋を畳み、荷造りをしてすぐにでも歩き出せる用意をしてから、神前で般若心経一巻。一宿の御礼に心をこめて唱えさせていただいた。
海岸沿いに国道を歩き、山側に開けたところができたと思うと、大きな鳥居が目に入った。神峰(こうのみね)神社の一番鳥居だろう。そちらに向いた道にはいる。そして、それから、ひたすら蛇腹折りの登り道。筍の季節だったのか、竹藪の前に軽トラが止まっていた。ふと後ろを振り返ると、太平洋が青々ときれいな色を湛えている。
さまざまな石の記念碑が見えだすと、27番神峰寺の山門があり、納経所があった。本堂は、そこから、また上に150段もの石段を上がる。その前に、石段下から噴き出す清水をいただく。神峰の名水だ。汗を吹き出しつつ、石段を上がる。本堂は、新しい木の香りが匂い立つようだった。本尊十一面観音。
大師堂には、大きな等身大のお大師様がおられた。この翌年歩いたときには、神峰寺で夕刻を迎えた。ご住職に、「ひさしでもお貸し願いたいのですが」と申し出ると、こころよく、納経所の畳で寝るように言われた。お言葉に甘え、畳に寝袋を開き、寝かしてもらった。翌朝起き出すと、なんとご住職がお盆に朝食をのせて持ってきて下さった。誠に申し訳ない思いがした。
実は、地元神辺のお寺さんがたとのバスによる団参の折、ご住職にお会いしたので、10年以上前のこの時の御礼を述べた。「ああ、そうかい、元気でな」と、まことに素っ気なく言われてしまった。神峰寺では、そんなことは日常茶飯事のことなのであろうか。それにしても、ありがたいお寺である。
山門を後に海を見ながら坂道を下る。水平線がとてもきれいだった。すると一台のワンボックスカーが止まり、白装束のお遍路さんが降りてくる。何事かと思うと、私に「お接待します」と言って、白い紙に包んだ物を下さった。丁重に御礼を言って歩き出す。また、水平線を見つつ歩く。ありがたくて、なにか申し訳なくて涙が出た。
またひたすら、国道を歩く。28番大日寺まで、39キロ。大日寺のある野市町までたどりつき、あと少しというとき、土建屋さんの車が止まった。中から奥さんが声を掛けて下さった。大日寺まで乗せてあげる、と言う。小雨が降り出したこともあり、ご厚意に甘える。
少しずつ雨が強くなる。この後、今日のお宿はあるの?と問うので、いや予定がありません、と言うと、知り合いの宿を世話してあげよう、ということになった。大日寺でお参りする間、下の道で待っていてくださって、ありがたいことに丸米旅館に連れて行って下さった。新しくはないが、とても小ぎれいな気持ちよい宿だった。
歩きながら考えることは、その日の宿のこと、人にどう見られているかとか。また将来のことや両親のこと。それに、しんどいので車のお接待を誰かしてくれないかなとか、腹が空いたなとか、いろいろだ。
しかし、いろいろ考えているときには何一つ叶うことはなく。そんなことを何も考えずに、ただボーと歩いていると、突然声を掛けられ、車をお接待していただいたりするようだ。結局自分の思い通りになることなど、一つもない。ただ歩き、拝んでいれば、他のことがついてくるというにすぎない。
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海岸沿いに国道を歩き、山側に開けたところができたと思うと、大きな鳥居が目に入った。神峰(こうのみね)神社の一番鳥居だろう。そちらに向いた道にはいる。そして、それから、ひたすら蛇腹折りの登り道。筍の季節だったのか、竹藪の前に軽トラが止まっていた。ふと後ろを振り返ると、太平洋が青々ときれいな色を湛えている。
さまざまな石の記念碑が見えだすと、27番神峰寺の山門があり、納経所があった。本堂は、そこから、また上に150段もの石段を上がる。その前に、石段下から噴き出す清水をいただく。神峰の名水だ。汗を吹き出しつつ、石段を上がる。本堂は、新しい木の香りが匂い立つようだった。本尊十一面観音。
大師堂には、大きな等身大のお大師様がおられた。この翌年歩いたときには、神峰寺で夕刻を迎えた。ご住職に、「ひさしでもお貸し願いたいのですが」と申し出ると、こころよく、納経所の畳で寝るように言われた。お言葉に甘え、畳に寝袋を開き、寝かしてもらった。翌朝起き出すと、なんとご住職がお盆に朝食をのせて持ってきて下さった。誠に申し訳ない思いがした。
実は、地元神辺のお寺さんがたとのバスによる団参の折、ご住職にお会いしたので、10年以上前のこの時の御礼を述べた。「ああ、そうかい、元気でな」と、まことに素っ気なく言われてしまった。神峰寺では、そんなことは日常茶飯事のことなのであろうか。それにしても、ありがたいお寺である。
山門を後に海を見ながら坂道を下る。水平線がとてもきれいだった。すると一台のワンボックスカーが止まり、白装束のお遍路さんが降りてくる。何事かと思うと、私に「お接待します」と言って、白い紙に包んだ物を下さった。丁重に御礼を言って歩き出す。また、水平線を見つつ歩く。ありがたくて、なにか申し訳なくて涙が出た。
またひたすら、国道を歩く。28番大日寺まで、39キロ。大日寺のある野市町までたどりつき、あと少しというとき、土建屋さんの車が止まった。中から奥さんが声を掛けて下さった。大日寺まで乗せてあげる、と言う。小雨が降り出したこともあり、ご厚意に甘える。
少しずつ雨が強くなる。この後、今日のお宿はあるの?と問うので、いや予定がありません、と言うと、知り合いの宿を世話してあげよう、ということになった。大日寺でお参りする間、下の道で待っていてくださって、ありがたいことに丸米旅館に連れて行って下さった。新しくはないが、とても小ぎれいな気持ちよい宿だった。
歩きながら考えることは、その日の宿のこと、人にどう見られているかとか。また将来のことや両親のこと。それに、しんどいので車のお接待を誰かしてくれないかなとか、腹が空いたなとか、いろいろだ。
しかし、いろいろ考えているときには何一つ叶うことはなく。そんなことを何も考えずに、ただボーと歩いていると、突然声を掛けられ、車をお接待していただいたりするようだ。結局自分の思い通りになることなど、一つもない。ただ歩き、拝んでいれば、他のことがついてくるというにすぎない。
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