住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

東京巡礼

2006年10月11日 11時04分59秒 | 様々な出来事について
9日朝一番の全日空で広島空港から羽田に飛んだ。その日正午から執り行われる新宿区西早稲田・放生寺の放生会(ほうじょうえ)に出仕するためだった。連休最後ということからか東京に向かう機内は空席が多く、快晴の中快適な一時間を読書に費やした。途中「富士山が左下にご覧になれます」とのアナウンスが流れたが、右側の席だったため見ることもなかった。

が、そのことを後でお寺で言うと「それは残念でしたね、席を移動しても見たら良かったのに、上から富士山を見れる機会などそうあるものではないし、富士山を見ると良いことがあるという人もありますよ」と言われた。まあ、それもそうかとも思ったが、別にそこまでして見たいという気持ちにはなれず、見たからどうとも思わない。一事が万事私はそんな感じだ。

ところで、ホウショウジという名のお寺はよく耳にするが、この字を書くお寺は他に知らない。放生寺は古くは放生会寺と言った。三代将軍徳川家光公から賜った寺号だ。開創の良昌上人が若い頃修行されたときに夢告から家光公の世継ぎ誕生を祈願して、後の家綱公がお生まれになり、その後中野の宝仙寺に居られた頃、放生寺の上に位置する辺りに八幡神を祀る話が起こり、その長官職に任命されて招かれ、それで高田八幡宮ができた。

当時は神仏習合の時代で、また江戸幕府が仏教を国教の位置に定めていたこともあって、神社を造営するとかいうと僧侶がその役割を担っていた。上に八幡社を建て、下に僧坊を造り、土地を崩していたときに穴が見つかり、そこから阿弥陀の小像が出てきた。阿弥陀仏は、八幡神の本持仏で、それが土地から出てきたということは八幡神を祀る適地であるとのことで、そのことが喧伝されて穴八幡との通称ができ、今ではそれが正式名称になっている。

そして良昌上人が夢告で徳川家の世継ぎ生誕祈祷をされたとのことが家光公の耳に達し、鷹狩りでお出ましの際に良昌上人を訪ねになり、お寺で修されている放生会の盛大なることを聞かれて寺号を光松山放生会寺と定め葵の御紋を寺紋とすることを許され、徳川家の祈願所とされた。

それで、江戸時代には、観音信仰が盛んになって江戸三十三観音の札所としても賑わい、「一陽来福」という金銀融通のお札が人気を集めて有名になった。このお札は、一陽来復という冬至の日に陰きわまって次の日から一陽一陽日が長くなることを意味する易経の言葉に観音経偈文にある「福聚海無量」の福の字を併せて一陽来福とし、観音菩薩の修法祈願により冬至の日に一般に頒布した。冬至の日の晩十二時に次の年の恵方に向けて居間の鴨居に貼り、金銀の融通と家族の幸福を願うという縁起の良いお札であった。

その後明治に入ると神仏分離令から、当時の放生寺住職の弟子が還俗して坊さんを諦めて神官になり、穴八幡を経営することになる。しかし経営に困って、お寺で頒布している一陽来福を一陽来復の名で細々売り出した。そして、先の戦争で広大な伽藍を焼失した放生寺は戦後見る影もなく、その間穴八幡で頒布した一陽来復が地下鉄が延びたことで有名になり多くの人々が穴八幡の一陽来復を求めることになる。冬至から翌年節分まで数万人もの人が詰めかける。

近年穴八幡は見違えるような瀟洒な建物を新築された。今回行ってみるとまず目に付いたのが、お寺に隣接した緑と朱の塀に囲まれた黒塗りの小社である。それこそがあの阿弥陀仏が出てきたという穴八幡の名の由来となる穴を祀るものだという。まだ建設途中ではあるが、きちんと神仏習合時の歴史が分かる説明書きを立ててもらいたいものだ。

放生寺でも今大きな客殿と庫裡を建設中である。墓地の新たな募集もあり放生会の法要は多くの参詣者で賑わった。生き物の命を大切に、動物だけでなく、人間の命も大切にしなければいけないだろう。その晩宿に戻ると北朝鮮核実験のニュースが飛び込んできた。

既に織り込み済みとの経済界の受け取り方が賢明なところではないか。戦争を起こそうとする人々があり、それによって潤う人々がいる。経済が戦争無しには回っていかないという人類普遍の原理もあろうが、何時の世でも苦しむのは私たち庶民だけである。

今の時代が、あの戦争に向かっていった昭和の初期に似ていると指摘する識者もおられる。新聞テレビの報道もやや偏った傾向が見られ出した。マスコミやジャーナリストたちの見識を問い、報道の質を見定める目を、私たち自身が持たなければいけない時代となった。

私がテレビを全く目にしなくなって何年経つだろう。新聞に目は通すが、そのすべてを受け入れる気持ちになれない。世論調査もまったく信用していない。恣意的に選別し、私たちをどこかへ誘導するものとしてマスコミがあると思った方が良い。

何があっても冷めた目で、どういう力関係、人間関係のもとに起こってきたものかを見定めることが必要だとある先生に教えられた。9.11のテロもやらせであったということがやっと、日本でも知らされ始めた。何事も大きく仕組まれ騙されているということを知らねばならないということだ。

翌日、私にとってのお寺の原点である浅草・浅草寺(せんそうじ)にお参りした。戦後GHQが「センソウジとは勇ましい。しかし、けしからん。そんなお寺は壊してしまえ」と言ったとか。言わなかったとか。しかし後に単なる音が同じだけと分かり取り壊されることもなく、今にその賑わいを伝えている。

相変わらずその壮大な本堂の大きさに圧倒される。中門は改装中だった。子供の頃境内に出た蛇革のベルト売りやバナナのたたき売りに目を輝かせ、また後に仲見世横で托鉢した日を思いだしつつ歩いた。江戸庶民の信仰を今に伝える浅草寺。何時までも平和にそのままの偉容を後世に伝えて欲しいと思った。

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コメント (4)
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