住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

高野山にお参りして

2006年10月05日 13時08分14秒 | 様々な出来事について
3日朝6時にお寺を出て、高野山に参拝した。國分寺参道入り口にバスが来て、4人の同行者と乗り込み、上御領、八尋を通って、38人。もう一台には22人の同行が乗り込んだ。総勢60人の団参。住職衆は6人。

山陽道、中国道、それに阪神高速から近畿地方を南下して橋本から高野山道路に入り、到着したのは、お昼を回っていた。途中バスの中で弘法大師1150年御遠忌記念のビデオを見た。高野山の山内行事を中心に専修学院生(高野山の僧侶養成専門道場)の修行風景を随所に紹介したものだった。

それを見ながら、かれこれ20年も前の自分の姿を重ね合わせて見ていると、次第に胸にこみ上げてくるものがあった。2月14日の晩から翌15日にかけて行う常楽会、9月から12月にかけて行ずる四度加行(しどけぎょう)中の両壇参拝、護摩の正行(しょうぎょう)、奥の院玉川での寒中水行など。

数カ所からゆらゆらと燃える護摩の火を眺め、また水行の感極まる心経の声を聞いていると胸が熱くなり、涙が流れた。当時の正に真剣に純粋に取り組んだ日々のことが思い出され、当時の思いが一つになって胸に飛び込んでくるような気がした。

かねて地元神辺結衆寺院の年間行事として毎年高野山にはこの時期参拝する訳ではあるが、住職衆も共に同行することが半ば義務となっていた。他の四国や薬師巡拝は檀家さんの参加のある寺院が出ればいいのではあるが、高野山は別格になっていた。そこにはどういう意味があるのかと思っていたのだが、この時やっとその意味が分かった。

自分たちの修行の地はやはり別格なのだと。若き日に、情熱を傾け、本気に取り組んだ、自分自身の信仰の証のような場にやはり一年一度は戻ってきて、当時の思い、志に心新たに向き合おうではないか。

下界に降りて、たとえお寺にあったとしてもその日常は世間の中で様々な喧噪に道心は埋没しがちであろう、一年一度もう一度身も心も清らかに清浄の中に立ち戻ることも必要だと。そういう意味合いがあったのではないか。おそらく、そういうことだろう。

私自身の場合は、その後インドに行ったり、四国を歩いたり、修行の思い出残る場所は多くある。しかしやはり、はじめてこの道に入って行というものに出会った場所として、高野山は特別の場所なのだろうと思う。そんなことに改めて気付かせていただいた。

世界遺産に登録されたり、高野山山内の様々な問題も耳にする。しかしそんなこととは一切関係なく、やはり古の規則を守り通し、今も厳然と修行の場としての姿勢を改めないだけでも高野山は格別なのだと思える。

参詣する人々、それぞれに思いは違う。しかしそれらの思いを受けとめられるだけの懐の広さがあるとすれば、それは弘法大師のご入定の地、伽藍の規模、建物の立派さもさることながら、やはり毎年100人を超える修行者が100日間も純真なる志をもって新たに修行する数少ない神聖なる道場であるからということなのではないだろうか。

翌日は、大阪に下り、四天王寺。宝塚の中山寺、清荒神清澄寺に参拝した。四天王寺は、聖徳太子が物部氏との戦に際し四天王像を刻み戦勝祈願して勝利し、その感謝をあらわして建てたお寺。

中山寺は女性の望みを聞いて下さるという観音霊場で、安産祈願に訪れる人が多い。明治天皇の祈願所だという。また清荒神は、火伏せの神。厄落としに火箸が沢山御供えされていた。ともに宗派本山として賑わっていた。

ところで、この度、60人の団参者のうち20代の方が10人近く参加された。おばあちゃんがお孫さん共々参加されたという家もあるし、おばあちゃんの供養に親子一家一同で詣られた方もあった。誠ににぎやかに有り難い参拝であった。

家族の連帯、意思の疎通が問題になっているこの時代に、こうして多くの若い世代が共に参加して下さったことに感謝したい。と同時に、福山市も決して例外ではなく、様々な精神的な問題を抱える人たちが増えつつある。

そうした人たちにもこういう機会に参加いただき、日常では得られない聖なる静寂の中に心癒される機会としていただけたらありがたいと思う。山陽道をひたすら西走し、神辺に到着。ところに応じて少しずつ下車していく同行者に名残惜しく思いつつ、お別れした。

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コメント (4)
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