住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

亥年をむかえて

2007年01月02日 13時51分15秒 | 様々な出来事について
今年は丁亥(ひのとい)年。12年前の亥年、1995年の正月には、私はインドの黄色い袈裟を纏って東京の放生寺に居候していた。その前々年93年4月にインドのサールナートで沙弥出家して、6月にはカルカッタのフーグリー河船上にてベンガル仏教会の長老方に見守られウパサンパダー(上座仏教の具足戒式)を受けた。

サールナート法輪精舎に住まいして、お寺のボランティアを手伝いつつベナレス・サンスクリット大学でパーリ語のディプロマコースに学んだ。そして翌94年4月に黄衣のまま一時帰国してから暫く学生向けの下宿に住み、その半年後から放生寺に移っていた。本当はその頃にはインドに戻っていなければいけなかったのに、インドで異常にコレラが流行して渡印を延期していた。

その年94年は、4月に新生党公明党社会党の反自民党連合が政権を取ったのもつかの間僅か2ヶ月で崩壊し、6月末には自民党と社会党が連立を組み、初の革新系党首村山氏が首班指名を受けた。

その時、私は茨城県大洋村の浄心庵というところにいて、スリランカの長老とともにその様子をテレビで見ていた。異様な政治の人間模様。世の中がグラリと、何でもありの異常な世界に入り込んだ一瞬だったのではないか。権力欲のためには思想信条も投げ捨てるという姿勢を時の為政者が示し、まさに退廃の世に国民を投げ入れた。

そして明くる95年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、テレビで見た自衛隊のヘリコプターが炎上する神戸の町を飛んでいる光景が強く印象に残った。自分でも何かしなければと思い救援物資を送った矢先に芦屋の知り合いから心のケアーのために避難所に来ないかとのお誘いがあった。二つ返事で了解し、震災後2週間目に東灘区の本山南中学の避難所に入った。

そのときには2週間ばかり滞在して心のケアーをはじめ様々なボランティアに励み、その後も3が月ほど1週間から10日間毎月本山南中学に通い、被災者のその後の生活復興を拝見した。その間に地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教一斉摘発へと続く。

またこの年は様々な金融機関の不祥事が続き、金融合併の先鞭を付ける年でもあった。4月には円が史上最高値1ドル79円75銭をつけた。この頃まではまだバブルの余韻があったが、次第に長期の不況感が漂い、人々にあきらめの色が濃くなっていく。どこへ行っても不況だからという言葉が聞かれるようになる。

いまもって一般庶民のこの雰囲気はそう変わらない。いいのは大企業と大銀行ばかりだ。また、昨年は、安倍政権となり、初の戦後生まれの首相が誕生した。国民の生活を無視し続けた小泉政治を継承すると言い、早々に教育基本法を変えた。これは国民主権から国のために国民ありとする日本国の根本を転換せんとするものであろう。

前の亥年1995年のように何か大きな事件が起こらねばよいがと祈っている。我が願いに天随うと言われたのは弘法大師だったか。しかし、逆に見ればこれは天も下界を見ているということでもあろう。だから人の願いに天が気づいてくださる。ついては、天に見限られないような私たち人間の行いをしなければいけないということでもある。

人の道に外れたようなことをしていて良いことはない、人の上に立つ人々はなおさらである。それぞれの立場に応じて明恵上人の説かれた「あるべきようは」を自らに問いつつ、日々過ごす必要があるのであろう。今年は、はたして何が起こるのであろうか。

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コメント (3)
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