住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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阪神大震災13年目を迎えて 東灘区田中町本山南中学の思いで 

2007年01月17日 07時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
朝日新聞社会面に、「まち人12年震災田中地区から」という連載があった。阪神大震災で最も大きな家屋倒壊の被害があった東灘区田中町の罹災当時と今にいたる復興の様子と人間模様を描き出している。JR神戸線の摂津本山駅から住吉にかけての南側、国道2号線も真ん中を通っている。

ここ國分寺も昨年福山市に合併しているが、福山市の中心部にも国道2号線が通る。この道をどこまでも東に行けば、12年前、まだ黄色い衣を纏って歩き回ったあの震災現場にたどり着くのだなぁ、と何度も思った。

あれから、まる12年がたった。今日は13年目の第一日、つまりは亡くなった人にとっては13回忌に当たる。当時私は、インドの黄色い袈裟を纏い東京のお寺に居候していた。震災二週間が過ぎようというとき、芦屋の知り合いから心のケアーに来ないかと言われ、速断した。

その2日後に新幹線で大阪に出て、それから、阪神電車で青木駅に向かった。当時西に向かう電車の最終駅だった。リュックを担ぎ両手に荷物を持ったおおぜいの人でごった返していた。知り合いと待ち合わせ、一緒に避難所になっていた本山南中学に向かった。電線が垂れ下がり、倒壊した家の瓦礫で道がふさがっていたり、ぐるりと遠回りをして駅から2時間あまりもかけて避難所に到着した日のことを思い出す。

避難者の代表とボランティアが協同で自治を起こしたところだった本山南中学の避難所の事務所で自己紹介をした。そして、とにかく出来ることを何でも手伝った。行くところ行くところ何人の被災者から話を聞いただろうか。みんな話したくて話したくて仕方なかったという感じで、堰を切ったように話しまくる。みんなその話には真実があり、胸を打たれ感動する話も数多くあった。

とにかくこうして生きていることが奇跡であった。ありがたい、生きているだけで幸せだという。それにしても何で神戸で地震があったのだろうか。何かやはり私たちは大きな過ちをしてきたのではないか。もっと人様のためになることをしよう。恩返しをしたい。そんな気持ちでいる人ばかりであった。

ボランティアに来る人もみんな温かい心をもって駆けつけてきた。みんな素晴らしい優しい人たちばかりだった。人と人との連帯。個人的な繋がりによって仕事が広がる。今でも連絡を取り合っている人たちがいる。一度みんなで会いたいと思う。同志社大学から来た代議士候補、慶応大学の博士たち、千葉県代表の主婦、愛知県の若き好々爺、将来の看護婦長さん。個性溢れる面々。

みんなそれぞれに駆けつけてきた背景は違う。中には、自分の生活圏で様々な問題を抱え生きにくく感じていたときに、この被災地に生きる場を、生きていると実感できる場を得て、水を得た魚の如くに活躍する人たちも大勢いた。みんな良い仲間たちだった。

自分を必要としている人がいる。自分のやったことがその場で人々の喜びに変わる。とてもストレートに反応が返ってくる。そんな生きがいをボランティアみんなに与えてくれた。阪神大震災は、最近の若い者は、と言うお年寄りたちにも、若い人たちを頼もしく、見直す機会にもなった。心の励みになった。

本山南中学の避難所は一時本当に被災者もボランティアも心一つにうまく自治が成立し、慈悲喜捨の温かい心の波動に満ちていた。みんなの笑顔が本当に素晴らしかった。震災は勿論たくさんの尊い人命を失い、家を無くし、その後も復興住宅での孤独死など多くの問題も継続する。とてつもない負の遺産を残した。

しかし、そうならなければ見出すことの出来なかった尊く優しい助け合う心、みんなのことを思いやる心を多くの人々に授けてくれたことも忘れてはならない。それによって亡くなられた多くの人々も救われたことであろう。亡くなられた方々に心よりの追悼をささげます。

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