住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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破鞋(はあい) 激動の明治に生きた型やぶりの禅僧に学ぶ

2007年01月06日 09時39分07秒 | 仏教書探訪
水上勉著『破鞋 雪門玄松の生涯』1986年10月17日初版。1300円。私がこの本を最初に読んだのは確か高野山を降りてインドに行き、そこで出会った臨済宗の雲水さんの案内で坐禅をはじめた頃だったと思う。ビニール紐で草鞋の編み方を習い、托鉢をしたり四国を歩いていた頃だった。

破鞋とは、破れたボロボロの草鞋を履いた僧侶のことだ。水上勉が破鞋と題した雪門玄松師の一生は、まさに栄枯盛衰波瀾万丈の生涯であった。和歌山市の豪商の跡取りだったが、時代の流れと当主の遊興が過ぎて家業が傾き、後を次男に任せ出家してしまう。出家した先のお寺も台風で壊れ、後に京都の相国寺荻野独園禅師に随侍して辛苦に耐えよく励み印可を手にする。

独園師は、明治の混迷する仏教界にあって臨済宗を代表する存在であった。大教院長であり、一時期一宗に統一した禅宗の初代管長にも任ぜられた。その後雪門師は実家の支援で中国に3年遊学して、帰国後は富山県高岡の国泰寺派大本山国泰寺管長として荒廃した伽藍の修復に奔走。山岡鉄舟の軸を担いで勧募に歩く。鉄舟歿時には本葬儀の導師として儀式を主宰している。

また国泰寺管長時代には後に禅を世界に宣布する鈴木大拙や近代日本哲学の金字塔を打ち立てる西田幾多郎が参禅して師と仰いだ。しかし雪門師は国泰寺住職をたった10年で返上し、草庵に引き籠もり在家禅を唱導。その後実家の財産であった鉱山経営のために還俗し当時日露戦争前の軍備増強勤倹貯蓄を強制する時代に翻弄される。

慣れない事業経営に失敗して、再度禅僧にもどり、若狭の田舎寺を寓居として、曹洞宗の寺で村おこしを手伝うなど往時の光彩を放つものの貧乏ななりで、まさに破鞋の僧として浮かばれないままに腹膜炎を患い66歳で歿してしまう。

水上勉自身が小さい頃に臨済宗の寺に預けられ、僧堂生活を経験しているだけにさすがに読み応えがあり、また明治時代の僧界の雰囲気、それに近代に仏教が抱え込んだ様々な問題点の数々が浮かび上がってくる。

ここ備後國分寺にも近い岡山の備前国主池田家の菩提寺である曹源寺が当時の臨済禅を代表する厳しい専門僧堂であり、ここからその後錚々たる多くの禅匠を生んでいることも知ることができた。

以前ここでも紹介した真言宗からスリランカに一人旅だって上座仏教の比丘となる釈興然師と同じスリランカの僧園に暮らした釋宗演師もここ曹源寺から巣立った一人であった。曹源寺は今たくさんの海外からの参禅者で賑わうと昨年だったか「大法輪」誌の巻頭グラビアで紹介されていた。

今回、昨年末にもう一度読み返したのは、雪門師が唱導した在家禅の教えに摩訶般若波羅蜜多と唱え念ずる新仏教の創立を目論んでいたとあったことを思い出したからである。般若心経とは何か、考え込んでいたときにこの本のことが頭に浮かんだ。

ネットオークションで初版本を取り寄せた。かいつまんで要所だけを読もうと思っていたが、一ページ目から精読することになった。それほどまでに著者自身の思索、雪門師を探索する情熱に引き込まれてしまう名著である。

初めて読んだ16年ほど前、この本のお陰で私はその後の遍歴を続けることができたのであろう。そして、今読み終わってやはり安穏と日を過ごすことのおこがましさ、僧たるものの意気込みを再度吹き込まれたように感じる。

僧とは何か、いかにあるべきか。今の僧侶が忘れ去ってしまった情熱がほとばしる。明治期に日本の仏教が大きく荒廃していく時代にあって、その波に抗い、それが故にあえなく時代に飲まれ破鞋のままに生涯を閉じた禅僧の生涯。雪門師の一生に学ぶものは多い。日本の全僧侶に読んでほしい一冊である。

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