般若心経。それは、日本仏教にとって必要不可欠の経典である。昔から寺院でも家庭でも誰もが親しみ読み継がれ、書写されるもっとも代表的な経典と言えよう。だからこそ、これまで、様々な立場の人々が解説を施してきた。
私自身も、数年前に「般若心経私見」として解説を試みたことがある。そのとき気をつけたことは、般若心経が書かれた時代の仏教知識で理解するべきであろうということだった。
つまり、般若経典が新しい仏教運動の思想を語る経典として制作された時代、仏教はどのように人々に受け入れられていたのか、その時代の人々の知識から般若心経を理解すべきであろうと。
乏しい私の仏教知識では、もとより、それは内容的には十分なものではなかったが、その解釈に対する方針、それこそが私のこだわりだった。なぜなら、他にある解説書はすべてみな大乗仏教者による大乗仏教優越論、ないし宗派宗旨にとらわれた自らに都合のいい内容に思えたからである。
そして、ここに紹介する「般若心経は間違い?」(宝島社新書の新刊)はスリランカ仏教の大長老が、上座仏教によるお釈迦様の教えからとらえた般若心経観を語る。そのとらえ方は私の「般若心経私見」に通底する部分がかなりある。私は、「般若心経私見」の末尾に結論として以下のように述べた。
「般若心経をいかに読むべきか。私たち凡夫にとって、否定された教説(五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四聖諦など)に冠された無の字は、南無の無と受け取っては如何なものかと私は思っています。心経を読誦して満足することなく、それら(南)無と唱える仏教本来の根本教説と向き合い、自ら心の内なるものにたずねいたるために示された教えであると受け取って欲しいのです」
いかがであろうか。この一文を読んだ人の多くが、これまでの大乗仏教優越論者たちの書く般若心経書と全く逆行する内容に肯んぜざるものを感じたことであろう。しかし、上座仏教の長老によって著された本書によって、私の書いた「般若心経私見」のこのとらえ方が、あながち大きく間違っていなかったことが証明されたと思う。
著者A・スマナサーラ師は、日本に来られて27年になられる。十数年前には私も間近に教えを受けたことがある。独学した私の仏教知識にお釈迦様の息吹を吹き込んでくださったのは師に他ならない。「仏教とはこうしたものです」と確信をもって語られる話に何の疑念を持つこともなく聞き入った。
今日、日本テーラワーダ仏教協会の長老として沢山の仏教書を出版いただいていることは、これから将来にわたり日本仏教を変えていく原動力になるであろう。おそらくスマナサーラ師の著作を無視して、日本で仏教は語り得なくなるのではないか。
なぜなら多くの一般に仏教を学ぶ人たちが師の本を読み、高いレベルの仏教知識を身につけることによって、法を説く者はそれ以上の知識と理解を求められる時代が来るであろうから。
前置きが長くなりすぎたが、早速、本書の内容を見ていこう。まず、大乗経典は、お釈迦様の語った説法の記録ではなく、お釈迦様の歿後数百年に経典制作者が自らの禅定体験などによってお釈迦様の名前を使って物語を作り独自の思想を語ったものだということをきちんと押さえておくべきだと述べられる。
仏教史を紐解けばそれは明らかなように、ご指摘の通りであり、このことをはっきりと日本仏教者は語ろうとしてこなかった。
そして菩薩とは、本来悟りを開く前のお釈迦様のことであるが、大乗仏教になって、仏教信者誰もが菩薩と見なされるようになりエスカレートした。
般若心経の大きなテーマである「空」は、本来特別視すべきものではなく、蜃気楼、無常、苦、などと同義の言葉に過ぎないない。解説書などで特にサーリプッタ尊者を侮る悪い癖がある。
また、すべてのものは空であっても、生滅、垢浄、増減はある。生滅がないという般若心経の作者は相当な間違いを犯したと記している。経典とはそのまま受け入れるもの、何の批判批評をすることなく、経典に書いてあるのだから間違いは無いはずだという信頼のもとに私たちは経典を受持する。
だから私自身が「般若心経私見」を書いたとき、そのまま心経の文言をこう理解したら上手く解釈が成り立つのではないかという苦労の末に、ちょうどこの生滅・垢浄・増減に関する解釈では、パーリ相応部経典を引いて無と否定することを肯定する見解を披瀝した。
しかし、スマナサーラ師から見たら、般若心経の作者を遙かに超えた知識と体験の中から、おそらく般若心経の誤りが透けて見えるのであろう。
さらに、このあと無と否定する五蘊、十二処、十八界、などはブッダの教えを理解する上で絶対に欠かせない大切な教えが詰まっていると語る。なぜなら、仏教とは形而上学でも観念論でもなく、科学的に人間の問題を解決する唯一の方法である、「生きているとは何なのか」と分析するものだからだと指摘する。つづく
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私自身も、数年前に「般若心経私見」として解説を試みたことがある。そのとき気をつけたことは、般若心経が書かれた時代の仏教知識で理解するべきであろうということだった。
つまり、般若経典が新しい仏教運動の思想を語る経典として制作された時代、仏教はどのように人々に受け入れられていたのか、その時代の人々の知識から般若心経を理解すべきであろうと。
乏しい私の仏教知識では、もとより、それは内容的には十分なものではなかったが、その解釈に対する方針、それこそが私のこだわりだった。なぜなら、他にある解説書はすべてみな大乗仏教者による大乗仏教優越論、ないし宗派宗旨にとらわれた自らに都合のいい内容に思えたからである。
そして、ここに紹介する「般若心経は間違い?」(宝島社新書の新刊)はスリランカ仏教の大長老が、上座仏教によるお釈迦様の教えからとらえた般若心経観を語る。そのとらえ方は私の「般若心経私見」に通底する部分がかなりある。私は、「般若心経私見」の末尾に結論として以下のように述べた。
「般若心経をいかに読むべきか。私たち凡夫にとって、否定された教説(五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四聖諦など)に冠された無の字は、南無の無と受け取っては如何なものかと私は思っています。心経を読誦して満足することなく、それら(南)無と唱える仏教本来の根本教説と向き合い、自ら心の内なるものにたずねいたるために示された教えであると受け取って欲しいのです」
いかがであろうか。この一文を読んだ人の多くが、これまでの大乗仏教優越論者たちの書く般若心経書と全く逆行する内容に肯んぜざるものを感じたことであろう。しかし、上座仏教の長老によって著された本書によって、私の書いた「般若心経私見」のこのとらえ方が、あながち大きく間違っていなかったことが証明されたと思う。
著者A・スマナサーラ師は、日本に来られて27年になられる。十数年前には私も間近に教えを受けたことがある。独学した私の仏教知識にお釈迦様の息吹を吹き込んでくださったのは師に他ならない。「仏教とはこうしたものです」と確信をもって語られる話に何の疑念を持つこともなく聞き入った。
今日、日本テーラワーダ仏教協会の長老として沢山の仏教書を出版いただいていることは、これから将来にわたり日本仏教を変えていく原動力になるであろう。おそらくスマナサーラ師の著作を無視して、日本で仏教は語り得なくなるのではないか。
なぜなら多くの一般に仏教を学ぶ人たちが師の本を読み、高いレベルの仏教知識を身につけることによって、法を説く者はそれ以上の知識と理解を求められる時代が来るであろうから。
前置きが長くなりすぎたが、早速、本書の内容を見ていこう。まず、大乗経典は、お釈迦様の語った説法の記録ではなく、お釈迦様の歿後数百年に経典制作者が自らの禅定体験などによってお釈迦様の名前を使って物語を作り独自の思想を語ったものだということをきちんと押さえておくべきだと述べられる。
仏教史を紐解けばそれは明らかなように、ご指摘の通りであり、このことをはっきりと日本仏教者は語ろうとしてこなかった。
そして菩薩とは、本来悟りを開く前のお釈迦様のことであるが、大乗仏教になって、仏教信者誰もが菩薩と見なされるようになりエスカレートした。
般若心経の大きなテーマである「空」は、本来特別視すべきものではなく、蜃気楼、無常、苦、などと同義の言葉に過ぎないない。解説書などで特にサーリプッタ尊者を侮る悪い癖がある。
また、すべてのものは空であっても、生滅、垢浄、増減はある。生滅がないという般若心経の作者は相当な間違いを犯したと記している。経典とはそのまま受け入れるもの、何の批判批評をすることなく、経典に書いてあるのだから間違いは無いはずだという信頼のもとに私たちは経典を受持する。
だから私自身が「般若心経私見」を書いたとき、そのまま心経の文言をこう理解したら上手く解釈が成り立つのではないかという苦労の末に、ちょうどこの生滅・垢浄・増減に関する解釈では、パーリ相応部経典を引いて無と否定することを肯定する見解を披瀝した。
しかし、スマナサーラ師から見たら、般若心経の作者を遙かに超えた知識と体験の中から、おそらく般若心経の誤りが透けて見えるのであろう。
さらに、このあと無と否定する五蘊、十二処、十八界、などはブッダの教えを理解する上で絶対に欠かせない大切な教えが詰まっていると語る。なぜなら、仏教とは形而上学でも観念論でもなく、科学的に人間の問題を解決する唯一の方法である、「生きているとは何なのか」と分析するものだからだと指摘する。つづく
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