住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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大覚寺の研究1

2007年10月16日 08時40分01秒 | 様々な出来事について
大覚寺は今年、中興後宇多法皇の入山700年を迎え、10月24から26日にかけて大法会が行われる。24日に38名の檀信徒とともに参詣する。この機会に、ここ國分寺の本山でもある大覚寺とはいかなるお寺なのか、ここにまとめておきたいと思う。

大覚寺はいうまでもなく、旧嵯峨御所嵯峨山大覚寺・真言宗大覚寺派の大本山である。大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、都より離れた北野の地をこよなく愛され、壇林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・嵯峨離宮である。

嵯峨野は、その昔から野の花が咲き競う大宮人の行楽地であり、月を愛で、花を賞し、皇族貴族の遊猟を楽しむ場所であった。嵯峨の地名は、唐(中国)の文化を憧憬していた嵯峨天皇が、唐の都・長安の北方にある景勝の地、嵯峨山になぞられたものである。

その後弘法大師とのやり取りを見ても、嵯峨天皇は、漢詩文にすぐれ、それらは勅撰漢詩集「凌雲集」などに採用され、書道の三筆にも列せられる、平安前期を代表する文化人として高い素養を備えた方であって、また当時としての国際性を併せ持っておられた。

嵯峨天皇は、平安建都の完成者とも、今日にいたる皇室という伝統を築いたとも言われている。前時代の律令体制を修正し補足した格式を中心に政治を執られ、中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。特に弘法大師空海は恩を賜り、弘仁7年に高野山開創の勅許を与え、同14年には東寺を下賜された。

弘法大師が、留学僧として20年間の滞在期間をあえて2年ほどで帰国した禁を犯したがために九州で足止めされて京の都に入れなかったのを許したのも嵯峨天皇であり、またその請来した経典類を評価し、真言宗という新しい教えを一宗として認めたのも嵯峨天皇であった。そのことを思うとき、この嵯峨天皇というお方は、真言宗にとって、誠に大きなご恩を感じる。

弘仁9年(818)春の大飢餓に際しては、天皇は、「朕の不徳、百姓何ぞつみあらん」と言われ、嵯峨天皇、壇林皇后とも衣服、常膳を省減し、人民への賑給を尽くすとともに、弘法大師の導きで一字三礼されて般若心経を書写された。その間皇后は、薬師三尊像を金泥で浄写され、弘法大師は、持仏堂五覚院で五大明王像の宝前で祈願したという。そのときの宸筆・般若心経は、現在も勅封として大覚寺心経殿に伝えられている。

この精神は後々までも引き継がれ、天変地異のあった天皇は自ら般若心経を書写して大覚寺に奉納することが恒例となって、後光厳、後花園、後奈良天皇などの宸翰が残されている。

嵯峨天皇は、皇位を淳和天皇に譲位されてのち、嵯峨野に20年間住まい、寝殿などの増築や中国の洞庭湖に模して東西200メートルもある大沢池をつくり、池泉舟遊式庭園が造園された。その北側には、藤原公任(きんとう)の歌で有名な名古曽の滝が造られている。百済からの渡来人が造ったと言われており、水落石の石組みが今に残る。

離宮嵯峨院が嵯峨天皇崩御の30年後の貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女で、淳和帝の皇后であった正子は、政争によって廃太子となっていた第二皇子の恒貞親王を初代の住職恒寂法親王として、嵯峨帝と淳和帝の威徳をしのび、寺院に改められ、初めての門跡寺院・大覚寺として再出発することになった。

当時、田地が36町あったと記録されている。因みに恒寂は、丈六の阿弥陀像を造ったと言われるが、当時から、大覚寺の中心は、嵯峨天皇の宸筆般若心経であった。

恒貞歿後、仁和寺を開く宇多法皇がたびたび参詣し、詩宴を開いた。その弟子であった寛空が大覚寺第二世となり、その後、三世定昭が興福寺一条院の出であったが為に、290年ばかり一条院が大覚寺を兼務することになり、藤原姓の住職が続く。

鎌倉時代、文永5年(1268)後嵯峨天皇が落飾して素覚と名乗り大覚寺に住職されて、後嵯峨天皇の子亀山帝がその後に続き、門跡寺院として復活。そして、さらにその子である後宇多上皇が徳治2年(1307)に寵愛していた妃・遊義門院を亡くされた哀しみから仁和寺で出家。金剛性と号して、大覚寺に遷られ法皇となって、大覚寺で、4年間にわたって仙洞御所として院政を執られたので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになった。

この頃、承久3年(1221)承久の乱と言われる後鳥羽上皇を中心とする公家勢力が幕府打倒の兵を挙げるという事件があり、皇室の結束を弱めるために幕府が干渉して、皇位が皇統や所領の継承を2分する調停を行い、亀山・後宇多の皇統は、後嵯峨、亀山、後宇多の三人の天皇が大覚寺に門跡として住したことにより大覚寺統(南朝)と称され、以後、後嵯峨天皇第二皇子の後深草帝の持明院統(北朝)と争うこととなる。

持明院とは、京都上京区にある藤原道長の曾孫、基頼が建てた邸内の持仏堂のこと。後深草天皇が、譲位後御所としたことから後深草天皇の系統を持明院統という。つづく

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コメント (7)
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