住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

大覚寺の研究3

2007年10月19日 07時59分00秒 | 様々な出来事について
それでは次に、大覚寺の建物と文化財について触れておこう。現在大覚寺の境内は、18万㎡約5万5千坪あり、先に述べたように南北の講和会議が行われた正寝殿(重文)、後水尾天皇の紫宸殿を移築したと言われる宸殿(重文)が境内中心部に位置している。

それぞれには、狩野山楽など狩野派の画家によって描かれた桃山時代の障壁画、金地に極彩色で、あるいは墨絵で描かれ、また、尾形光琳や渡辺始興らの名筆になる建具などすべて重文に指定されている。

正寝殿御冠の間の桐竹の蒔絵、宸殿の牡丹図、紅白梅図など。また宸殿前には、ミカン科の常緑小高木の橘と、紅梅の老木がある。庭も苔も美しく、各宮家のお手植えの松などが多く珍しい樹木もあり、嵯峨野の御所らしい風情を醸し出している。

また、大正期の勅封心経殿、その前には心経前殿。大正天皇即位式の響宴殿を賜ったもので、御影堂とも言われ、中央は心経殿を拝するため開けられ、右に弘法大師の秘鍵大師、嵯峨天皇、左に後宇多法皇、恒寂法親王の御影を祀っている。またその左には歴代門跡の位牌と右には皇室関係者の位牌が並ぶ。

そして、国民の幸福と平和を祈り嵯峨天皇が弘法大師に造らせたと言われる五大明王を祀る五大堂。安井門跡蓮華光院の御影堂を明治4年に移設し、後水尾天皇の等身大の木像を祀る安井堂(徳川中期)、庭湖館と呼ばれる客殿(徳川中期)奥の間には慈雲尊者の「六大無碍常瑜伽」の掛け軸があり六大の間と言われ、私が晋山したときに親授式後のお斎に参上した場所であった。

また大覚寺に功労のあった人々の過去帳位牌を祀る霊明殿は、昭和33年関東から移設したもので、お堂の右には、草薙全宜門跡の御像が祀られている。また大きな庫裏は、明智光秀の亀山城の陣屋を移したもの。

そして各建物を結ぶ回廊は村雨の廊下と言われ、縦の柱を雨、直角に折れ曲がるのを稲光と見る。天井は刀槍を振り上げられないように低く造ってある。床は鴬張り。

池の北側には新しい朱塗りの心経宝塔がある。元々心経殿があった場所に、昭和42年、嵯峨天皇の心経写経1150年記念に建立された。如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置して、秘鍵大師を安置する。また、大沢野池畔には裏千家による茶室望雲亭がある

ところで、大覚寺の本堂は五大堂で、そこには、現在、昭和の大仏師、松久朋琳宗琳による五大明王が祀られている。現在の大覚寺本尊である。しかし、これと別に二組の五大明王像がある。

一つは、平安後期を代表する仏師、定朝を祖とする三派のうち円派の、当時の造仏界をリードした明円作は五体が完備し、重文。伝統に裏付けされた中に、生命感と品格を感じさせる。定朝とは、藤原道長の晩年の時代の大仏師で、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏が確証ある代表作という。

もう一組は、鎌倉時代の作と室町時代の作の混成のものがあり、室町時代のものは2メートルを超える巨大像。元々弘仁2年(811)嵯峨天皇が弘法大師に、五大明王像を造らせ五覚院を建立して安置したと言われ、以来大覚寺では五大明王を本尊としてきた。

五大明王とは、別々に成立した明王を不動明王を中心に、金剛界五仏にならい配したもので、中央大日に当たるのが不動明王、東方阿閦如来に降三世、南方宝生如来に軍荼利、西方無量寿如来に大威徳、北方不空成就如来に金剛夜叉。

降三世明王は、三世界の主として、三毒を忿怒の形相で踏みつけて降伏させる。軍荼利明王は、もとは蛇の姿をしたシャクティという性力崇拝のシンボルで、諸々のものを授け、障害を除く。大威徳明王は、閻魔を摧殺して衆生の懸縛を除く。金剛夜叉明王は、一切の悪、三世の悪い汚れ濁りある欲心を呑み込み除く。

因みに、五大堂には、本尊の右に弘法大師、左に最後の宮門跡であった慈性法親王を祀り、さらに弘法大師の隣には釈雲照和上の合掌する御像を祀っている。

また大覚寺には、このほかに、鎌倉末の愛染明王像、鎌倉後半の毘沙門天像が収蔵されている。仏画では鎌倉時代作の理趣経曼荼羅、五大虚空蔵画、金剛界曼荼羅降三世会などを収蔵する。

さらに、大沢池畔に並ぶ石仏は、彫像の様式から平安後期を下るものではないと言われ、大振りな五体は胎蔵界の五仏。他に、阿弥陀如来、聖観音など、沢山の石仏が並ぶ。

多くの仏を祀り、本尊もおられるわけではあるが、しかし、なんと言っても大覚寺の一番の中心は、宸翰般若心経であり、中でも嵯峨天皇の宸翰を真の本尊とするのが大覚寺である。

ここ備後國分寺の創建時には丈六の釈迦如来が金堂の本尊として祀られてはいたが、当時の國分寺の中心は七重塔に祀られた、今日国宝に指定されている金光明最勝王経であったと言われるのと同じ事である。

そして、「大覚寺は仏像を中心とする寺院ではない。朝原山山頂にある嵯峨山上陵を守護する伽藍である。帝王が天地神明。仏天菩薩に対して責任を感じ、我が身を慎むことによって、神明仏陀の絶大なる慈悲に浴し、神仏の慈悲で天下泰平、万民快楽ならんとする嵯峨天皇の御意を体し、その御意を宇内に拡げようとするための聖舎である」

と、歴史家中村直勝氏が「大覚寺の歴史」で唱えるように、大覚寺とは、宸翰勅封心経を嵯峨天皇がお書きになられた御心に報じ、我が国の安泰と人々の幸福を祈願するための我が国の中心にして神聖なる道場なのであるといえよう。だからこそ、皇室などから中心となる建物がいくつも下賜されたり、最高の文物がそれぞれに設えられ、また歴史的にも時代の潮流に度々巻き込まれ翻弄されてきたのである。

最後に、大覚寺は「いけばな嵯峨御流」でも有名であるが、これは嵯峨天皇が大沢池の菊島から菊を手折られて花瓶に挿し眺められ、菊の気品ある姿と香りを好まれたことが華道の始まりとされ、華道発祥の地でもある。嵯峨天皇そして後宇多法皇によって代表される御所の伝統精神が大覚寺の格式ある文化の源ともなっているのである。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする