住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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『般若心経は間違い?』を読んで2

2007年10月13日 10時43分15秒 | 仏教書探訪
五蘊は、「私は何からできているのか」ということを、十二処は、「私はどのように認識するのか」ということ、十八界とは、「私と外の世界との関わりはどうなっているのか」ということを教えてくれる、とスマナサーラ師は、簡単明瞭に解説される。

これらによって、自分とは実体がなく、あるのはネットワーク、網のような存在であって、そこには芯になるようなものはなく常に変化している、私も含め存在は無常であるということがそこから簡単に学ぶことができると指摘される。

さらに十二縁起は、仏教の心髄であり、それは「私という存在の因縁論、私自身の生きる苦しみ」を説明したものであって、これによって私はどうすればいいのかが明確になるものであるという。

そして四諦は「悟りへの道筋」が述べられている。つまり、心経が無と否定するこれらお釈迦様の根本の教説は、そのすべてが、仏教というからには必要不可欠な教えばかりであり、決して否定すべきものではないと言明されている。

阿羅漢というお釈迦様と同等な悟りに至るためには、様々な段階があるが、最後まで、自分という五蘊を観察して最終的な最高の悟りにまで至るものであると明かされる。

煩悩だらけ、執着だらけの自分、この自分という思いから執着が生まれるのだから、それが徹底的に空である、実体がないということを段階ごとにより精緻に観察していかくなてはいけない。それができると無執着の心が生まれ解脱に至る、つまり悟るのだと言われる。

つまり五蘊も十二因縁も、心経で無と否定されるブッダの根本教説は、初学者には必要だけど、般若心経で言うような高度な空論では否定していいなどと言えるものではないということを言明されている。

このことは心経を解釈する上で、また大乗仏教の教えを受け入れる者にとっても、大変重要なことではないかと思われる。なぜなら、大乗仏教という新しい教えは、その前の教え、つまりお釈迦様の教えを捨てて成り立つものではないということを念頭に置く必要があるからだ。お釈迦様の根本教説を学び実践することがまず優先されるべき事を教えている。

そして、心経は最後に、「ギャーティギャーティ・・・」という呪文こそ一切の苦を除くとなっているが、このことは、仏教の経典というものが修行の方法を語るべきものであるという根本から逸脱してしまったものとなり、まったく解せないと率直に語る。

空論を語り、その後お釈迦様の教説を否定してきて、菩薩たちはみな般若波羅蜜多で解脱したというなら、その修行論を語るべきなのに、突如として、呪を唱え直観を得るというような神秘主義に陥ってしまったのはいかがなものか。上座仏教の論書の一つ清浄道論には、精密な空の瞑想法が数十種類の空観の実践法として記されているのに・・・。

さらに、宗教たるもの決して人間の呪文願望を支えてはならない。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているとも書かれている。インドの文化では、呪文でなんでも希望がかなうというところまでは言うのだが、さすがに、呪文で悟りに達するとまでは言わなかった。それなのに、般若心経やチベット密教の経典になると悟りまで呪文で達成してしまうとするが、それは呪文を過大に評価しすぎであり、やり過ぎだという。

確かに、勉強もしないで、呪文を唱えて大学に合格するとは誰も思わないであろうから、大学受験とは比較にならないくらいに難しい悟りということを呪文で解決しようとするのは、やはりお釈迦様の仏教とは言えないであろう。

そして、お釈迦様の直接の言行録であるパーリ経典の立場からは、般若心経には、これが真理だとする理論、このようにしなさいという実践論、人間として成長しなくてはいけないという躾も欠けているとスマナサーラ師は結論する。向上する躾が欠けているなら、それはブッダの生の教えではない、これが経典をチェックする上での重要なポイントだという。

ブッダの教えなら、たとえ四行であっても、がんばりなさいというひと言、成長するための方法が必ず入っている。理論と実践は切り離せないというのがブッダの立場。それなのに、般若心経には、それらがなく経典としての体もなしていないと糾弾されている。

般若心経の作者は、何の立場もない祈祷師程度だと思う、呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き残され残っただけではないかとも書かれている。ことの真偽は分からない。

しかし、私がかつて心経を解釈したときにも感じたことであるが、心経をこのように解釈したら意味が通じはしまいかという解釈する者が経典を助けてあげねばならなかったことは、おそらく解釈する誰もが感じることであろう。

その点についてもスマナサーラ師は、本来真理の言葉であるべき経典を解釈者が意味や言葉を補わねばならないということは、それはお釈迦様の教えとは言えない、すべてを悟られたお釈迦様の言葉には無駄も補足すべき点もない完璧なものであるからと言われる。つづく


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コメント (4)
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