住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 4

2007年06月06日 08時03分19秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島弁財天

神秘とロマンの弁才天降臨の島・厳金山宝厳寺は、本尊大弁才天は日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として参拝者の姿が絶えず、御詠歌の声が響いている島だ。

私ごとで恐縮ではあるが、私は備後に来るまでは、東京の深川七福神の一つ、冬木弁天堂に堂守として住まいしていた。その弁天堂は、もとは冬木屋という江戸中期から江戸市中の大がかりな建築を引き受ける、今で言えばゼネコンとも言える大材木商冬木家の屋敷神であった。

冬木家は、尾形光琳のパトロンとしても知られるが、同じ材木商でも、大尽遊びで有名な奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門などとは違い、茶の湯を楽しむ趣味人でもあったらしい。

冬木屋自体はもう絶えてないが、その近辺を冬木町と言い町名にその名を留めている。その冬木の弁天様は、江ノ島の弁天様の分身で琵琶を持った裸弁天像だった。そこから、厳島・竹生島・江ノ島の日本三弁天について知ることになった。

当時は衰退していたが、その冬木弁天を護持する開運講の人たち、つまり材木問屋の檀那衆や辰巳芸者のお姉さん達、料亭の女将、富岡八幡の神社神輿総代方は、盛んな頃は毎年のように竹生島の弁天様を参詣していたと聞いた。そんなこともあり、何時かは私も参りたいと以来念願していたのであった。それがこの度かなうので、私にとっては十年来の念願かなっての参詣なのである。

ここから本題に戻る。竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、奈良の大仏建立に尽力する僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだという。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立して、千手観音像を安置した。創建時には竹生島寺と称し、東大寺に属した。伝教大師、弘法大師なども来島、修行されたと伝えられている。また皇室等の信仰を受け天皇の行幸が続き、堂塔伽藍の整備が進められた。

竹生島は「水神」としての弁才天信仰が盛んとなり天台僧が多く渡島修行し、平安期には叡山末となる。しかし、貞永元年(1232)竹生島全山焼失。3間四面の弁才天宝殿、同じく3間四面の観音堂等、坊舎30余灰燼に帰すとされる。

そのご復興を遂げるが、正中2年(1325)今度は大地震により多くの堂塔が倒壊。再興の勧進状によれば3間四面の弁才天宝殿、同じく観音堂、小島権現本地阿弥陀如来を安置する3間四面の堂、1間四面の阿弥陀堂、島主大明神の堂、小島権現堂、七所王子の宝殿各1棟計7棟、三重塔、1間四面の経蔵、七間の中門廊、5間の経所、5間の薬屋、湯屋、食堂、鐘楼などの伽藍が復興対象として挙げられている。

この復興の後、享徳3年(1454)火災・全山焼亡。永正5年(1508)には竹生島大神宮寺と号したという。天文9年(1540)には一応再復興を完了するものの、永禄元年(1558)再び火災にあい、堂舎炎上。浅井氏などの援助を受けるも復興は遅々としたものであった。竹生島は、豊臣秀吉との関係も深く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されているが、秀吉は慶長7年(1602)片桐且元を奉行として復興に当った。

その後、その遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺構である本堂(現神社本殿)観音堂や唐門などを移築させ今日の姿に復興せしめた。その移築時の時代背景としては、秀吉公亡き後に家康公により豊臣色を薄める政策がとられ、その一連の流れのなかで、豊国廟の縮小を余儀なくされた秀頼公は、その遺構を残すべく片桐且元に移築の命を与えたのであった。

慶長8年(1603)「寺領置目」では、瑠璃坊、実相坊、月定院、妙覚院など23の坊舎がある。近世初頭、延暦寺末から、新義真言長谷寺末に転ずる(現在は真言宗豊山派末)。

経済的困窮より、享保元年(1716)には9院、幕末には4院に減じたという。「中世以降、弁才天信仰が隆盛になるに及んで、浅井姫命の神格は弁才天の中に吸収・融合せしめられ、竹生島は仏教一色の霊場となり、古来の社名や祭神はほとんど忘れられていた」といわれる。

従って明治初頭の竹生島には勿論神職は存在せず、妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみであった。明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという命令が下った。

しかしながら、全国数多くの信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなった。それが現在の竹生島神社の本殿である。そして、そこで常行院覚潮が復飾して神職(現在の生島家)となり、弁才天は宝殿を出て一時観音堂に移座、弁才天社は都久夫須麻神社(竹生島神社)と改称された。

しかし、ご神体が無いため、適当に宝厳寺宝物中より2点を選び、ご神体としたと言われる。その後明治中期まで、蓮華会の執行権の帰属、弁財天像・観音堂敷地の移管を巡り、宝厳寺と神社は対立するが、結局は実体のない神社側には移管はされず。以来、本堂のないままに仮安置の大弁才天であったが、昭和17年、現在の本堂が再建された。つづく

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