住職のひとりごと

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 3

2007年06月04日 10時43分12秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
那谷寺(なたでら)

那谷寺は、奈良時代、泰澄法師によって開かれた、美しい岩山と四季の草花に囲まれた、高野山真言宗別格本山である。高野山真言宗寺院が3500ヶ寺ある中で、別格本山は57ヶ寺だけ。高野山山内の別格本山を除くと、30か寺。奈良の大安寺や岡山の西大寺、京都神護寺などがある。

那谷寺は五木寛之著「百寺巡礼」にも掲載され、境内を散策すると、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句碑があり、秋には紅葉が色彩やかに庭園一杯に広がる。また、初詣や七五三、百日参り、各種供養などの場所としても親しまれている。

境内に足を踏み入れると、「奇岩遊仙境」の美しい姿に圧倒され、四季の草花が色彩やかに咲き誇る「庭園」に時を忘れ佇む人も多い。松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句「石山の 石より白し 秋の風」が句碑として現存し、近年復元造園された『瑠美園』は深山幽谷の感がある。

歴史

那谷寺を抱くようにしてそびえる白山は往古の昔、その気高い山容から、 清らかで優麗な女神の住む山として神聖視され、信仰の対象となっていたと言われている。奈良時代の初め、「越の大徳(たいとこ)」とよばれ、多くの人々の崇敬を集めた名僧・泰澄法師が、白山に登り、白山の神が十一面観音と同じ神であることを感得した。

そして、養老元年(717年)霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置。法師は「自生山 岩屋寺」と名付け、寺は法師を慕う人々や白山修験者たちによって栄えた。これが那谷寺開創の由来であるという。

平安時代中期の寛和2年(986年)花山法皇が行幸された折、岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられ、法皇は「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」と曰われたと言われる。そして、西国三十三カ所の第1番・那智山の「那」と、第33番・谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、自ら中興の祖となられた。

花山法皇とは冷泉天皇の第一皇子で65代天皇。17歳で即位されましたが、最愛の女御の逝去を悲しむあまり、藤原兼家の謀略にかかって在位2年で退位、出家し各地を巡礼されたのであった。

中世に入って南北朝時代には、足利尊氏側の軍勢が寺を摂取して城塞とし、新田義貞側がこれを陥れ、一山堂宇ことごとく灰燼に帰した。また、一向一揆中に改宗して一向宗に近づく僧や信者が続出、次第に勢力を弱めた。中世は那谷寺にとって苦難の時代であったと言うが、一部の修験者たちは命懸けで寺を護持、観音信仰と白山修験を捨てることはなかった。

江戸時代になると、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主・前田利常公が寛永17年(1640年)後水尾院の命を受け、名工・山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせた。書院は最も早く完成し、利常公自らがここに住まわれ、山上善右衛門らを指揮したといわれている。

江戸時代にはまた俳聖・松尾芭蕉が来訪し、「奥の細道」道中の元禄2年(1689年)7月、門人・曾良とともに山中温泉を経由して、8月5日、曾良と別れ、金沢の門人・北枝とともに那谷寺を訪れた。

明治維新後は廃仏毀釈の影響を受け、一時困窮するが、昭和初期に再建計画が進められ、昭和16年、利常公ゆかりの建造物すべてが国宝(現・重文)に指定されてからは加速度的に復旧がなされた。平成2年には金堂華王殿も再建された。

現在でも、那谷寺は古代人の素朴な生命観、宗教観が息づいており、古代人は人の魂はあの世からこの世へ循環し続けていると考えていたという。岩窟本殿での「胎内くぐり」などがあり、洞窟は母の胎内を表わし、生きているときの諸々の罪を流して、生まれ変わりの祈りをささげる場所であったと言われる。理想の浄土は素朴な美しい自然に囲まれた世界にあるとして、那谷寺では十一面千手観音、霊峰白山、奇岩遊仙境が本尊であると言えよう。

境内諸堂

山門・参道は、数百年を経た杉椿の樹林に囲まれ、幽邃にして森厳、江戸期に寄進された石燈篭が両側に並ぶ。杉並木は小松より那谷寺にいたる御幸街道杉の一部で、寛永年間に加賀藩主前田利常公が植樹したもの。

金堂華王殿は、明治に廃寺となった花山天皇の御寺に因んで名づけられ、金堂は平成二年に650年ぶりの再建となり、総桧造りにて鎌倉時代和様建築様式、本尊丈六の十一面千手観音を始め、白山曼荼羅、秦澄神融禅師、中興の祖花山法皇像を安置。壁面は郷土が生んだ代表作家による作品で飾られている。那谷寺における法会は全てここで行われる。

書院(国指定重要文化財)は、天正の戦乱(室町末期)で諸堂伽藍が焼失した後、仮の御堂として建てられたもので、寛永十七年に利常公が書院として改造、自らこの書院に在って山上善衛門、後藤程乗等の名工をつかって、諸堂再興にあたったと言われている。武家風書院造りで一間毎に柱が入り、特に玄関入口は当時としては珍しい土天井で他の書院に見る事の出来ない数々の特徴をもった重要文化財。部屋は全て京間造りで、前南二間は仏間兼対面の間、東に面した部屋は装束の間、指定園に面した北間は利常公御成の間その前の廊下は家老の間となっている。

庭園は、書院から見える。茶道遠州流の祖である茶人大名・小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行・分部卜斉に造らせたもの。昭和四年に文部省名勝指定園になった。作庭年代は、寺院再興と同時期で、素朴な形態の中に気品を保ち、寺院茶庭として有名で、特に平庭の飛石は、三角あるいは四角の切石をはさみ、変化と調和を表現している。

荒削りの雪見燈篭は、景観上重要な位置を占め、附近の景色に良くマッチしている。石組は三立石よりなる三尊石型で、本庭園石組の見どころで、一種の迫力を醸し出している。尚、北西隅に利常公愛用の茶室、如是庵がある。

普門閣(宝物館)は、ここから約三十キロ離れた白山山麓旧新保村にあった春木家の家屋を譲り受け、昭和四十年に移築したもので、同家の祖先性善坊は親鸞聖人の諸国遍歴に従った後、大日山麓に道場を開き、子孫は江戸時代、白山西谷五ケ村の庄屋となった。

家屋は永平寺再建にあたった棟梁が、弘化四年から三年がかりで完成させた。欅造りで、雄大さは北陸随一といわれている。普門閣とは法華経観世音菩薩普門品からの命名。仏教美術品や前田家ゆかりの茶道具などを展示している。

本殿・大悲閣拝殿は、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願により大悲閣といい、本殿岩窟前の一大岩壁に寄りて建てられ四棟舞台造り、四方欄間浮彫りで、鹿、鳳凰、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉等花鳥を配す。

唐門は国指定重要文化財で、本殿前の岩窟入口に建てられ、本殿は岩窟内に構築され、中に厨子あり、ともに支那及び南洋材。内に那谷寺御本尊千手観世音菩薩を安置。

三重塔も、国指定重要文化財。小塔だが、三層とも扇垂木を用い四方の扉をはじめ壁面唐獅子の二十の行態や菊花の彫刻は美麗。内に鎌倉時代、那谷寺金堂にお祠りしてあった大日如来を安置している。楓月橋は寛永年間、前田利常公が計画し、現代になってようやく実現したもので、展望台から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、頂上には白山妙理大権現を祠る鎮守堂が建っている。

護摩堂も、国の重要文化財で、壁面には沈思、柔和、昇天、凝視、喜悦、雅戯、正邪、問答の八相唐獅子、四面に十二支の動物及び牡丹を彫刻し、内陣には平安時代作の不動明王を安置している。また、鐘楼も国の重要文化財、入母屋造り和様建築で袴腰の上まで石造になっている。内には寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。

そして、有名な「奇岩遊仙境」は観音浄土浮陀落山もこのような風景かと疑わせる奇岩霊石がそそりたち、その足をあらう蓮池の自然絶妙、その昔は海底噴火の跡であったと伝えられている。


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