第三段の概説
「しーちょうふくなんじょうせーきゃぼーちじょらい・・・」と第三段が始まる。ここに「調伏難調釈迦牟尼如来」とあるように、この段は教主大日如来が、様々な煩悩の火を吹き消して覚https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/り、その教えによって多くの迷える人々さらには教化しがたい者たちをも覚らしめたお釈迦様となって登場する。
第二段では、真に完全なる覚りとは、①永遠なる堅固広大なるもの、②無限なる価値あるもの、③尊く清らかなもの、④すべての行いがその計らいを超えて互いに救済しあっているものであり、すべてのものが一体平等なるものと見てきた。第三段では、その①永遠なる堅固広大なるものとしての覚りの意味を展開していく。
私たち人間は常に苦しみの中にあると、お釈迦様はご覧になった。四苦八苦の苦しみと言うように、生まれた瞬間から生老病死の四苦の苦しみが生じ、これに愛別離苦(愛する者と別れねばならない苦しみ)、怨憎会苦(憎しみ合う者と会う苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(身と心から盛んに生じる苦しみ)を併せて八苦の苦しみが襲い来る。
これら四苦八苦を生じる根本の原因となるのが、人の心に巣くっている、貪瞋痴の三毒と言われる三つの根本的な煩悩である。それによって、誰しもが迷い怒り愚かしい心を持つにいたる。お釈迦様は、これら苦しみの原因となる三毒を真実なる智慧を開かれることによって克服なされた。
カピラ城を出て遊行し、六年間の苦行を経て、菩提樹下で瞑想する修行者シッダールタの前には、沢山の魔が夜ごと襲いかかったと言われる。代表的な魔は、様々な煩悩である煩悩魔、苦しみを起こさせる色受想行識の五蘊の陰魔、死をもたらす死魔、天に住み人の善事を邪魔する天魔の四魔であったと言われる。
これらが襲い来たとき、お釈迦様は、右手を膝の下に降ろし地に触れて、大地の神にこの世の真理を獲得し解脱せんとの堅い決意が不動なる真実であることを証明して見せたことによって魔は退散していったという。正にこのお姿が前回述べた四仏・四智の一つ「大円鏡智」を象徴する阿閦如来(あしゅくにょらい)のお姿でもある。
つまり、真実を示すこと、それが魔との戦いに勝利することになった。それと同じように真実の姿、この世のあり様を真実なる智慧によって見るとき、人間の根本的な煩悩である三毒も消えて無くなってしまう。小さな自己の欲求に取り巻かれている人々が、正しく貪瞋痴を制御するためにこの世の中の真実の智慧を授けるのが、この段の教えであると趣旨を説明する。
無戯論ということ
私たちは無意識のうちに、眼と耳と鼻と舌と皮膚から入る刺激に反応して、それが自分にとって好ましい物なら欲の心を、好ましくない物なら怒りの心を生じさせている。心の中で思い巡らす刺激に対して欲や怒りの心から妄想していくのも同じこと。しかしその好ましい物でも、ずっとその刺激が続くと逆に苦しみ、そして怒りに転じていく。
甘い物が好きで、ケーキを食べたいと欲の心で食べたとしても、三つも四つも食べたらムカムカして、もう食べたくない見たくもないという怒りの心が生じる。それなのにもっと食べたいと思い、吐きだしてまでご馳走を食べるなどという愚かしいと思えることも、中世のヨーロッパの貴族の間では実際に行われていたと聞く。好きな音楽も何時間も聞き続ければ、もう耳にしたくないという怒りの心にも転じる。香りの良いお香でも、沢山焚いてしまえば悪臭に転じていく。
しかしたとえば同じ欲でも、何か人に喜んで欲しい、助けてあげたいという気持ちから、欲っしていた物を見つけてあげたり、困っている人を助けてあげたようなときに、心から感謝されてこちらもうれしく思うような喜びの心はとても長く心楽しい気持ちでいさせてくれる。さらには、自然の中で少し落ち着いた気持ちで心静かに過ごしたり、坐禅でもして心の中に何もない安らぎ心地よさを経験することは、さらに大きな喜びを永く味わうことが出来る。
欲や怒りの心は良くないと思っても、特に欲は次々に生じてくるものなので捨てられるものではない。捨てることを考えるのではなく、外からの刺激をどう受け取るか、受け取る側の反応の仕方が問題なのである。物事にとらわれず、蓮の上の水玉の如く周りに囚われず自由に安らかにあるべきだと教えられている。
無戯論・戯れの論がないとは、小さな自分だけの好き嫌いの感情から欲をつのらせたり怒ったり愚かな思い行為に至ることから離れ、自他の対立を離れ、自他が一体なるものとの認識の元に、自分も周りも、もっと沢山の人たちや生きものたち全体が良くあるように幸せであって欲しいと、大きな欲に心を導いていくことをいう。
貪瞋痴の三毒をこのように小さな自分の中のとらわれた分別から開放して、より広く大きな、長い時間に亘って喜びを感じられる清らかな心に転じていくことによって、一切法、つまりすべてのこの世の現実世界も、本来このような小さな個による好き嫌いを超えた清らかな存在である。すべてのこの世の現実世界が清らかな広大な永遠なる存在であると目覚めれば、真実なる般若の智慧も開かれていくと説くのである。
第三段の功徳
そして「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。すなわち、この段の聞き手である金剛手菩薩に対し、この欲望を正しく導く教えをよく受けとめ、実践していくならば、たとえ欲望にまとわれた人々を殺害するようなことがあったとしても、地獄の暗闇の世界に墜ちることはないと諭している。ここでの殺害とは、悪業を生む心の中の煩悩を殺害することを意味しており、それによって、自他共々に真実なる智慧を速やかに獲得するからであると説かれる。
降三世の印を結ぶ
そこで、金剛手菩薩は、この教えを重ねて明らかにせんとして、心に巣くう頑なな自己に固執した欲や怒りの心を粉砕すべく、三世を支配するというインドの神・シヴァ神を倒した降三世明王の忿怒の形相で、蓮華を持ちその姿が広大な慈悲心から現されたものであることを明かすために微笑みさえ浮かべて、すべての者たちの豊かな人格の形成を念じる。
降三世の印とは、両手の甲を胸の前に交差させ小指を掛け合わせた形であり、仏の心と迷える衆生の心、さらには、小さな自己と真に広大なる宇宙大の自己との一体不二なることを表している。そして、その心の心髄を表すべく、降三世明王がシヴァ神を打ち倒したときの勇猛なる心・金剛吽迦羅心の一字真言「フーン」を唱えた。
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「しーちょうふくなんじょうせーきゃぼーちじょらい・・・」と第三段が始まる。ここに「調伏難調釈迦牟尼如来」とあるように、この段は教主大日如来が、様々な煩悩の火を吹き消して覚https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/り、その教えによって多くの迷える人々さらには教化しがたい者たちをも覚らしめたお釈迦様となって登場する。
第二段では、真に完全なる覚りとは、①永遠なる堅固広大なるもの、②無限なる価値あるもの、③尊く清らかなもの、④すべての行いがその計らいを超えて互いに救済しあっているものであり、すべてのものが一体平等なるものと見てきた。第三段では、その①永遠なる堅固広大なるものとしての覚りの意味を展開していく。
私たち人間は常に苦しみの中にあると、お釈迦様はご覧になった。四苦八苦の苦しみと言うように、生まれた瞬間から生老病死の四苦の苦しみが生じ、これに愛別離苦(愛する者と別れねばならない苦しみ)、怨憎会苦(憎しみ合う者と会う苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(身と心から盛んに生じる苦しみ)を併せて八苦の苦しみが襲い来る。
これら四苦八苦を生じる根本の原因となるのが、人の心に巣くっている、貪瞋痴の三毒と言われる三つの根本的な煩悩である。それによって、誰しもが迷い怒り愚かしい心を持つにいたる。お釈迦様は、これら苦しみの原因となる三毒を真実なる智慧を開かれることによって克服なされた。
カピラ城を出て遊行し、六年間の苦行を経て、菩提樹下で瞑想する修行者シッダールタの前には、沢山の魔が夜ごと襲いかかったと言われる。代表的な魔は、様々な煩悩である煩悩魔、苦しみを起こさせる色受想行識の五蘊の陰魔、死をもたらす死魔、天に住み人の善事を邪魔する天魔の四魔であったと言われる。
これらが襲い来たとき、お釈迦様は、右手を膝の下に降ろし地に触れて、大地の神にこの世の真理を獲得し解脱せんとの堅い決意が不動なる真実であることを証明して見せたことによって魔は退散していったという。正にこのお姿が前回述べた四仏・四智の一つ「大円鏡智」を象徴する阿閦如来(あしゅくにょらい)のお姿でもある。
つまり、真実を示すこと、それが魔との戦いに勝利することになった。それと同じように真実の姿、この世のあり様を真実なる智慧によって見るとき、人間の根本的な煩悩である三毒も消えて無くなってしまう。小さな自己の欲求に取り巻かれている人々が、正しく貪瞋痴を制御するためにこの世の中の真実の智慧を授けるのが、この段の教えであると趣旨を説明する。
無戯論ということ
私たちは無意識のうちに、眼と耳と鼻と舌と皮膚から入る刺激に反応して、それが自分にとって好ましい物なら欲の心を、好ましくない物なら怒りの心を生じさせている。心の中で思い巡らす刺激に対して欲や怒りの心から妄想していくのも同じこと。しかしその好ましい物でも、ずっとその刺激が続くと逆に苦しみ、そして怒りに転じていく。
甘い物が好きで、ケーキを食べたいと欲の心で食べたとしても、三つも四つも食べたらムカムカして、もう食べたくない見たくもないという怒りの心が生じる。それなのにもっと食べたいと思い、吐きだしてまでご馳走を食べるなどという愚かしいと思えることも、中世のヨーロッパの貴族の間では実際に行われていたと聞く。好きな音楽も何時間も聞き続ければ、もう耳にしたくないという怒りの心にも転じる。香りの良いお香でも、沢山焚いてしまえば悪臭に転じていく。
しかしたとえば同じ欲でも、何か人に喜んで欲しい、助けてあげたいという気持ちから、欲っしていた物を見つけてあげたり、困っている人を助けてあげたようなときに、心から感謝されてこちらもうれしく思うような喜びの心はとても長く心楽しい気持ちでいさせてくれる。さらには、自然の中で少し落ち着いた気持ちで心静かに過ごしたり、坐禅でもして心の中に何もない安らぎ心地よさを経験することは、さらに大きな喜びを永く味わうことが出来る。
欲や怒りの心は良くないと思っても、特に欲は次々に生じてくるものなので捨てられるものではない。捨てることを考えるのではなく、外からの刺激をどう受け取るか、受け取る側の反応の仕方が問題なのである。物事にとらわれず、蓮の上の水玉の如く周りに囚われず自由に安らかにあるべきだと教えられている。
無戯論・戯れの論がないとは、小さな自分だけの好き嫌いの感情から欲をつのらせたり怒ったり愚かな思い行為に至ることから離れ、自他の対立を離れ、自他が一体なるものとの認識の元に、自分も周りも、もっと沢山の人たちや生きものたち全体が良くあるように幸せであって欲しいと、大きな欲に心を導いていくことをいう。
貪瞋痴の三毒をこのように小さな自分の中のとらわれた分別から開放して、より広く大きな、長い時間に亘って喜びを感じられる清らかな心に転じていくことによって、一切法、つまりすべてのこの世の現実世界も、本来このような小さな個による好き嫌いを超えた清らかな存在である。すべてのこの世の現実世界が清らかな広大な永遠なる存在であると目覚めれば、真実なる般若の智慧も開かれていくと説くのである。
第三段の功徳
そして「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。すなわち、この段の聞き手である金剛手菩薩に対し、この欲望を正しく導く教えをよく受けとめ、実践していくならば、たとえ欲望にまとわれた人々を殺害するようなことがあったとしても、地獄の暗闇の世界に墜ちることはないと諭している。ここでの殺害とは、悪業を生む心の中の煩悩を殺害することを意味しており、それによって、自他共々に真実なる智慧を速やかに獲得するからであると説かれる。
降三世の印を結ぶ
そこで、金剛手菩薩は、この教えを重ねて明らかにせんとして、心に巣くう頑なな自己に固執した欲や怒りの心を粉砕すべく、三世を支配するというインドの神・シヴァ神を倒した降三世明王の忿怒の形相で、蓮華を持ちその姿が広大な慈悲心から現されたものであることを明かすために微笑みさえ浮かべて、すべての者たちの豊かな人格の形成を念じる。
降三世の印とは、両手の甲を胸の前に交差させ小指を掛け合わせた形であり、仏の心と迷える衆生の心、さらには、小さな自己と真に広大なる宇宙大の自己との一体不二なることを表している。そして、その心の心髄を表すべく、降三世明王がシヴァ神を打ち倒したときの勇猛なる心・金剛吽迦羅心の一字真言「フーン」を唱えた。
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