住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

やさしい理趣経の話6常用経典の仏教私釈

2010年10月17日 07時19分47秒 | やさしい理趣経の話
第四段の概説

「ふぁあきゃあふぁんとくしーせいせいせいはっせいじょらい・・・」と第四段が始まる。ここに「得自性清浄法性如来」とあるのは、教主大日如来が、この世の中を自在に観察し、すべての物事の本質はみな清らかなものだと照らし観る如来に転じた姿。つまりこの世を自在にご覧になる観自在菩薩と同体とされる阿弥陀如来となって登場する。

第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第四段では、その中の③清らかな目で世の中を観る智慧とはいかなるものかを開示している。

第三段では、貪瞋痴の三毒に関して、小さな自分という、とらわれた分別からの開放を説いた。それによってこの現実世界が広大なる清浄世界であると知られる(大円鏡智(だいえんきょうち))と、自(おの)ずからものの見方も清浄になる。

そこで、この第四段では、「一切法平等観の自在の智印が出生する」とあるように、どんなものも、それぞれに異なり、その違いを如実に観察する。すると、各々に尊く等しく価値あるものと見出される。このように、阿弥陀如来の眼差しで、あらゆるものが悉く等しく清らかな価値あるものと観察する智慧(妙観察智(みょうかんざっち))を、ここに明らかにしようというのである。

たとえば、ただやっかいなものと思いがちな落ち葉も朽ちて土壌となり、動物の排泄物も肥やしとなって作物を生長させる。私たちの心に霧が掛かっているかのように存在する欲や怒りや愚かしい思いも、自分というとらわれた思いがなくなれば、すべてのものを利する智慧となって輝き出す。

まるで波打つ湖面が静まると湖底まできれいに見通せるように、すべてのものにそのものの本来の価値を見出すならば、みなそれぞれが平等に清らかに光り輝いていることが分かる、その清浄なる見方でものを観る教えをここに説くと、簡潔にこの段の趣旨を説明している。

ものの見方を清浄にする

そして、「そーいーせーかんいっせいよくせいせいこー」と教えが展開されていく。はじめに、いわゆる世間のすべての欲が本来清らかなものであると言う。清らかというのは、既に何度か述べているとおり、自他の対立を越えたものであるということ。意識的に自分と他の境をなくしていくと、波のない湖底を見通せるようにそのものの本質が顕現する。

人々の心を汚し、不幸に陥れ、争いの原因ともなるような欲や怒りの心も、その心が生じたとき、一瞬にしてその心に気づき、全体として一つなのだという清らかな心で捉え直していくならば、どんなに醜いと思われる欲の心も、純粋な心のエネルギーとして、命を育み向上させていく力として存在している。

ダライラマ法王は日本人社会学者上田紀行氏との対談(『ダライ・ラマとの対話』講談社文庫)の中で、偏見に基づいた欲望はなくすべきだが、利他の心、覚りを求める心など価値ある良き欲望は滅すべきではないと述べられている。自分のための、偏見に基づいた欲の心を利他や覚りを求める欲へと転換させることで、良い欲の心として生かされていく。

またダライラマ法王は、怒りについても、愛情や慈悲の心が存在していて怒りが生まれる場合は相手を害するような悪い動機はなく、社会の不正を正していこうというような有益な怒りであるとも述べられている。

欲の心がすべてのものを向上させる、全体が良くあることを願う利他の力となるならば、そのような欲の心が満たされずに発する怒りの心は、世の中の不公平な不正な状態に対する怒りとなり、怒りの心もすべてのものが良くあるようにと働きかける力となるであろう。

そのような自他の区別をつけないで欲や怒りの心を捉えてみると、それら煩悩にとらわれ愚かしく頑な心も、それによって引き起こされる様々な罪業も、無始なる輪廻世界での行為と捉えるならば、本来はそれぞれに純粋な心に導かれるべき行いと捉えることが出来る。

だから、すべてのものも、生きとし生けるものも、純粋なる心に向かいつつある、清らかな存在である。そうした清らかな存在である人々のすべての知識も、また覚りの智慧も、一切衆生を清らかな世界に導く教えとなり、すべての心も存在も清浄なるものだというのである。

第四段の功徳

次に、この教えを聞く菩薩衆を代表する金剛手菩薩に呼びかけ、この第四段の功徳が説かれる。

「貪る人々の中にありて、貪なく、いと楽しく生きん。貪る人々の間にありて、貪なく暮らさん」(法句経一九九)と、お釈迦様は教えられているが、ここでは、ものの見方を清浄にするならば、そのような世間にあっても完全なる覚りを証得すると説く。

つまり、その教えを聞き、それを信じ、その智慧を体得すべく努力するならば、たとえ世間の中にあって、欲にまとわれ怒りや愚痴の心が生じたとしても、蓮華が泥の中にあってその周りの泥にけがされること無く清らかな花を咲かせるように、それら諸悪に染まることなく、すみやかに、無上なる正しい覚りに至ることが出来るというのである。

観自在菩薩の心真言

そして最後に、改めて、世尊大日如来が阿弥陀如来から娑婆世界での姿である観自在菩薩に変化(へんげ)せられて、この世の中のあらわれをすべて清らかなものと照らし観る瞑想に入られる。

そして、その教えを自らの姿に明らかに示そうとして、その法悦を顔面に顕(あらわ)して微笑し、左の手に蓮華を持ち、右の手をもってそれを開かせようとの勢いをなす。

一切の衆生の様々な異なる姿そのものに各々の価値を観察し、煩悩の中にあっても汚染されることなく、みな清らかなものであるとの心を説き示し、その心髄を表す一字真言「キリーク」を唱えた。


(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国遍路行記-23 | トップ | 般若心経からのメッセージ 1 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
無題。 (忠武飛龍)
2010-10-19 20:49:04
なにって無いですが、感じるとところもあって自分のブログに引用します。

自身の汚れに気がついても清浄さに、気がつかない。
それが「悪しき鍛錬主義」「完ぺき主義」のように思います。あまりの「分別」の利剣で、豊穣な悟り・智慧を破壊してしまうことが、私も周囲も時々犯す過ち。

悟りなど無理ですが、もっと自他に優しくなれるようになりたいです。

再見!
返信する
忠武様へ (全雄)
2010-10-20 11:40:25
いつもありがとうございます。

そうですね、自分は正しいと思いがちです。どうしてもその場に立つと自分こそがという気持ちになってしまいますが、これこそが迷いですね。

自分も間違っているかも知れないと常に思える清らかさというか、素直さを持っていたいものです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

やさしい理趣経の話」カテゴリの最新記事