前回までで、この理趣経の舞台設定を説く序文が終わって、ここから初段本文に入る。「せーいっせいほうせいせいくもんそい・・・」と唱え初段が始まる。「説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)」とは、「一切の法の清浄句の門を説きたもう」ということ。「一切の法」とあるが、仏教でいう「法」には様々な意味があり、仏教の教えを表したり、また真理であったり、この世に現れたものを意味する場合もある。ここでの「法」は最後の「現実に存在するもの」を意味する。
「諸行無常」という言葉があるが、現実に存在するものすべては移り変わっていくというこの無常は、なぜ無常かと言えば、他のものに依存して様々な条件のもとで仮にいま存在しているからであって、不安定だから常に変化している。すべてのものが他とともに存在すると言うこともできるので、すべてのものは相互に関係し、みな繋がった大きな一連の存在と見ることができる。
こうした自と他の繋がりを見ていくと、自も他もない一体不二の関係性が見えてくる。これを別の言葉で「縁起」ともいい、「空」ともいう。また「清浄」とも言う。このあたりが般若理趣経と言われる所以であって、「清浄句の門」とは、自も他もない「空」という関係性の教えとの意。だから、説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)で「すべてのものが自他の区別のない清らかな心の教えを説く」ということ。
そしてこの後、「○○せいせいくしほさいー」と唱える定型句が十七回繰り返される。これを十七清浄句と言い、男女の性交に関する言葉が登場するので有名なところである。まず「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)(妙適清浄の句は是れ菩薩の位なり)」とあり、「妙適」とは、まさに男女の性交のよろこびを意味する言葉であり、またより大きな楽しみという意味もある。理趣経はこうして男女の性という生命を生み育むおおもとの交わりを、一味一体の清らかなものと見て、それを菩薩の心と表現してより神聖なものと捉える。
その「妙適」が「妙適清浄」と表現されることによって、単なる男女の合体を性的意味合いから転換して個と宇宙、自と他、内と外という仕切りを取り払った全体として物事を捉える世界観を表現する言葉となり、大きくその意味合いが変わってくる。個々の私情をはるかに超えて自と他の境のない、つまり宇宙のすべてのものとの一体、一つであるとの意識により、より大きなよろこび楽しみへと心を差し向ける手かがりとして男女の性交を意味する言葉を表現している。
このあとも男女の交歓に関する言葉が四つごとのまとまりとして四組、つごう十六の言葉が唱えられるが、二つ目の清浄句からその具体的な内容に入っていく。まず、「欲箭清浄句是菩薩位」とあり、「欲箭」は快楽を求める矢のような心を意味するが、「欲箭清浄」では、すべてのものと一体一つになる境地を欲し、自他ともによくあらんと強く引きつけられるのは菩薩の心であると述べる。
同様に、欲の心から相手に触れることを意味する「触」、お互いに結びつき離れがたくなることを意味する「愛縛」、一体となりすべて思い通りになったことを意味する「一切自在主」という言葉が使われ、男女の行為の状況を表現しながら、それぞれ「触清浄」「愛縛清浄」「一切自在主清浄」となると、自他を区別する意識がなくなり一体となり、その心地にいつまでも浸りたいと思い、すべてのものと一つとなり、それらがよくあるようになし、すべてが思い通りにかなう心地にあるのは、それぞれ菩薩の心であると教えられる。
続いて、欲の心から見たいと思うことを意味する「見」、触れることによる悦びを意味する「適悦」、お互いに離れがたく思うことを意味する「愛」、一切のものが自在になったと思う「慢」という言葉を用いて、男女の関係の情感を表現しながら、「見清浄」「適悦清浄」「愛清浄」「慢清浄」となると、すべてのものと一つとなって世の中を見て、その同体なりとの安楽を得て、慈しみの心を持って愛おしく思い、すべてのものの中にある自分を実感する菩薩の心となる。
そして、お互いを意識して飾る「荘厳」、触れる歓びから心豊かになる「意滋沢」、愛によって光が差してくる「光明」、すべてが自在になった心地よさから「身楽」という言葉を用いて、男女の関係の心理を表現しながら、「荘厳清浄」「意滋沢清浄」「光明清浄」「身楽清浄」となると、この世のすべてのものと一つになった境地を得てすべてのものが美しく、心満たされ、光り輝き、身体に安らぎと心地よさを実感することに意味が転換される。
さらに、「色」「声」「香」「味」という、眼・耳・鼻・舌に入り感覚として私たちが貪瞋痴の煩悩でとらえがちなものについても、おのおの「色清浄」「声清浄」「香清浄」「味清浄」となると、覚りに導き入れる姿であり、説法となる音声であり、三昧に導く香りであり、歓喜にいたる法味となる。これら十六に展開された清浄なる心はみな各々が菩薩の境地なのであると唱えられる。
以上が十七清浄句である。次に、何故ならばとことわりがあり、「一切の法が自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり」と続く。一切すべてのものが本来別々に存在しているものではないので、般若波羅蜜多という覚りの智慧も自他の対立を離れて清浄であるということ。ここでは般若波羅蜜多の智慧は、本来私たちが獲得すべき智慧として捉えられているという。だから、私たち自身がそのような境地が開かれるように修行をし、自分自分という自己中心的な発想を止めて、自分以外の者との隔たりを超えて、自も他もない一つの全体が存在しているのだという、そういう見方でものごとを見ていかねばならないと強調される。
そして、次に、この初段本文、とくにこの十七清浄句についての功徳が述べられる。「金剛手よ」、と沢山の聴衆の代表として、金剛手菩薩に呼びかけ、「このような清浄を実現する般若波羅蜜の覚りの境地を聞くことがあるならば、覚りに至るまで、覚りを邪魔する様々な障害も、貪瞋痴の煩悩も、素直に正しい教えを聞けない障り、業によって生じてくる障り、これらを多く積み重ねたとしても地獄に堕ちることなく、さらに重い罪を重ねても消滅する。だからこの教えを大切に受持してよくよく日々読誦し、注意して深く思索するならば、この一生のうちにすべてのものが分け隔てないものだという覚りの心をえて、自も他もない融通無碍となり、心に歓喜を得て、十六大菩薩の功徳を身につけて、最高の覚りを開くであろう」とある。
本来は悪事を重ねることは覚りの障害の何ものでもないと考えられている。だから沢山の罪を重ね今に至る私たちは、どれだけの果てしない時間を要しても覚りなど手の届かないものだと諦めてしまいがちではないか。だから阿弥陀如来の本願にすがって念仏にたよろうとの気持ちにもなる。しかし、お釈迦様の時代にも、アングリマーラという多くの人を殺し恐れられた極悪凶暴なる者であっても、ひとたび改心して出家し、お釈迦様の教導により修行することによって阿羅漢果を得たという例もある。
ただし、もちろんのこと、なればいくらでも悪事に走ってもよいとするのではない。この経典に出会い教えを受け入れ唱えた、いま、心あらたまった、そのときにあっては、過去にとらわれず、たとえ過去にいかなる事があろうとも、覚りを求めることを捨てずに日々一歩でも前進し、今生での覚りを得られるほどに精進することを迫る、正にそのことを強烈にアピールするための功徳文なのだと言えよう。唱えれば誰でも簡単に仏になれる、そんな安易な意味でないことは当然のことであろう。
そして最後に、「しーふぁきぁふぁんいっせいじょらいたいしょうけんしょうさんまーやー・・・」と唱え、初段のまとめに入る。聞き手の代表だった金剛手菩薩が登場して、大日如来の唱えた教えをもう一度復唱し、覚りの心髄としての一字の真言をお唱えになる。
この金剛手菩薩は、世界のすべての人々を残りなく教化しすべての教えをマスターして、満面の微笑みを浮かべて、左の手は拳にして腰に当てて右手にした金剛杵を揺さぶり、自信に満ちあふれた姿で、すべては一体不二で清らかなものだとすべての人に知らしめようと心静かに願って瞑想に入り、その心髄を現す一字真言「フーン」を唱えた。読誦する場合には、この部分は唱える音調に変化を加えて唱え、最後は「さーんまやーしーん」と各所を引きのばして唱える。そうして、この唱えるとき、正に唱え手もそのままに、この菩薩の瞑想の中に没入するのである。
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「諸行無常」という言葉があるが、現実に存在するものすべては移り変わっていくというこの無常は、なぜ無常かと言えば、他のものに依存して様々な条件のもとで仮にいま存在しているからであって、不安定だから常に変化している。すべてのものが他とともに存在すると言うこともできるので、すべてのものは相互に関係し、みな繋がった大きな一連の存在と見ることができる。
こうした自と他の繋がりを見ていくと、自も他もない一体不二の関係性が見えてくる。これを別の言葉で「縁起」ともいい、「空」ともいう。また「清浄」とも言う。このあたりが般若理趣経と言われる所以であって、「清浄句の門」とは、自も他もない「空」という関係性の教えとの意。だから、説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)で「すべてのものが自他の区別のない清らかな心の教えを説く」ということ。
そしてこの後、「○○せいせいくしほさいー」と唱える定型句が十七回繰り返される。これを十七清浄句と言い、男女の性交に関する言葉が登場するので有名なところである。まず「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)(妙適清浄の句は是れ菩薩の位なり)」とあり、「妙適」とは、まさに男女の性交のよろこびを意味する言葉であり、またより大きな楽しみという意味もある。理趣経はこうして男女の性という生命を生み育むおおもとの交わりを、一味一体の清らかなものと見て、それを菩薩の心と表現してより神聖なものと捉える。
その「妙適」が「妙適清浄」と表現されることによって、単なる男女の合体を性的意味合いから転換して個と宇宙、自と他、内と外という仕切りを取り払った全体として物事を捉える世界観を表現する言葉となり、大きくその意味合いが変わってくる。個々の私情をはるかに超えて自と他の境のない、つまり宇宙のすべてのものとの一体、一つであるとの意識により、より大きなよろこび楽しみへと心を差し向ける手かがりとして男女の性交を意味する言葉を表現している。
このあとも男女の交歓に関する言葉が四つごとのまとまりとして四組、つごう十六の言葉が唱えられるが、二つ目の清浄句からその具体的な内容に入っていく。まず、「欲箭清浄句是菩薩位」とあり、「欲箭」は快楽を求める矢のような心を意味するが、「欲箭清浄」では、すべてのものと一体一つになる境地を欲し、自他ともによくあらんと強く引きつけられるのは菩薩の心であると述べる。
同様に、欲の心から相手に触れることを意味する「触」、お互いに結びつき離れがたくなることを意味する「愛縛」、一体となりすべて思い通りになったことを意味する「一切自在主」という言葉が使われ、男女の行為の状況を表現しながら、それぞれ「触清浄」「愛縛清浄」「一切自在主清浄」となると、自他を区別する意識がなくなり一体となり、その心地にいつまでも浸りたいと思い、すべてのものと一つとなり、それらがよくあるようになし、すべてが思い通りにかなう心地にあるのは、それぞれ菩薩の心であると教えられる。
続いて、欲の心から見たいと思うことを意味する「見」、触れることによる悦びを意味する「適悦」、お互いに離れがたく思うことを意味する「愛」、一切のものが自在になったと思う「慢」という言葉を用いて、男女の関係の情感を表現しながら、「見清浄」「適悦清浄」「愛清浄」「慢清浄」となると、すべてのものと一つとなって世の中を見て、その同体なりとの安楽を得て、慈しみの心を持って愛おしく思い、すべてのものの中にある自分を実感する菩薩の心となる。
そして、お互いを意識して飾る「荘厳」、触れる歓びから心豊かになる「意滋沢」、愛によって光が差してくる「光明」、すべてが自在になった心地よさから「身楽」という言葉を用いて、男女の関係の心理を表現しながら、「荘厳清浄」「意滋沢清浄」「光明清浄」「身楽清浄」となると、この世のすべてのものと一つになった境地を得てすべてのものが美しく、心満たされ、光り輝き、身体に安らぎと心地よさを実感することに意味が転換される。
さらに、「色」「声」「香」「味」という、眼・耳・鼻・舌に入り感覚として私たちが貪瞋痴の煩悩でとらえがちなものについても、おのおの「色清浄」「声清浄」「香清浄」「味清浄」となると、覚りに導き入れる姿であり、説法となる音声であり、三昧に導く香りであり、歓喜にいたる法味となる。これら十六に展開された清浄なる心はみな各々が菩薩の境地なのであると唱えられる。
以上が十七清浄句である。次に、何故ならばとことわりがあり、「一切の法が自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり」と続く。一切すべてのものが本来別々に存在しているものではないので、般若波羅蜜多という覚りの智慧も自他の対立を離れて清浄であるということ。ここでは般若波羅蜜多の智慧は、本来私たちが獲得すべき智慧として捉えられているという。だから、私たち自身がそのような境地が開かれるように修行をし、自分自分という自己中心的な発想を止めて、自分以外の者との隔たりを超えて、自も他もない一つの全体が存在しているのだという、そういう見方でものごとを見ていかねばならないと強調される。
そして、次に、この初段本文、とくにこの十七清浄句についての功徳が述べられる。「金剛手よ」、と沢山の聴衆の代表として、金剛手菩薩に呼びかけ、「このような清浄を実現する般若波羅蜜の覚りの境地を聞くことがあるならば、覚りに至るまで、覚りを邪魔する様々な障害も、貪瞋痴の煩悩も、素直に正しい教えを聞けない障り、業によって生じてくる障り、これらを多く積み重ねたとしても地獄に堕ちることなく、さらに重い罪を重ねても消滅する。だからこの教えを大切に受持してよくよく日々読誦し、注意して深く思索するならば、この一生のうちにすべてのものが分け隔てないものだという覚りの心をえて、自も他もない融通無碍となり、心に歓喜を得て、十六大菩薩の功徳を身につけて、最高の覚りを開くであろう」とある。
本来は悪事を重ねることは覚りの障害の何ものでもないと考えられている。だから沢山の罪を重ね今に至る私たちは、どれだけの果てしない時間を要しても覚りなど手の届かないものだと諦めてしまいがちではないか。だから阿弥陀如来の本願にすがって念仏にたよろうとの気持ちにもなる。しかし、お釈迦様の時代にも、アングリマーラという多くの人を殺し恐れられた極悪凶暴なる者であっても、ひとたび改心して出家し、お釈迦様の教導により修行することによって阿羅漢果を得たという例もある。
ただし、もちろんのこと、なればいくらでも悪事に走ってもよいとするのではない。この経典に出会い教えを受け入れ唱えた、いま、心あらたまった、そのときにあっては、過去にとらわれず、たとえ過去にいかなる事があろうとも、覚りを求めることを捨てずに日々一歩でも前進し、今生での覚りを得られるほどに精進することを迫る、正にそのことを強烈にアピールするための功徳文なのだと言えよう。唱えれば誰でも簡単に仏になれる、そんな安易な意味でないことは当然のことであろう。
そして最後に、「しーふぁきぁふぁんいっせいじょらいたいしょうけんしょうさんまーやー・・・」と唱え、初段のまとめに入る。聞き手の代表だった金剛手菩薩が登場して、大日如来の唱えた教えをもう一度復唱し、覚りの心髄としての一字の真言をお唱えになる。
この金剛手菩薩は、世界のすべての人々を残りなく教化しすべての教えをマスターして、満面の微笑みを浮かべて、左の手は拳にして腰に当てて右手にした金剛杵を揺さぶり、自信に満ちあふれた姿で、すべては一体不二で清らかなものだとすべての人に知らしめようと心静かに願って瞑想に入り、その心髄を現す一字真言「フーン」を唱えた。読誦する場合には、この部分は唱える音調に変化を加えて唱え、最後は「さーんまやーしーん」と各所を引きのばして唱える。そうして、この唱えるとき、正に唱え手もそのままに、この菩薩の瞑想の中に没入するのである。
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確かに、欲望というのはなかなか無くならない、だから、その性格を変えてあげたらいい。こう言うのは簡単なのですが、それを実行するのはそう簡単ではないですね。
自分という思いがあるうちはなかなかそこまで出来ないものではないかと思います。自分という思いが無くなる。つまりは悟りを得ないといけない。そうなると、悟れないうちは、そう言うものだと思いつつ、欲望を野放しにしがちなのかもしれません。
理論としてそう言うものだと思うのは簡単ですが、ではそれをどう今の生活に活かすか、その理論をどう工夫して近づいていけるか。難しいところです。