第六段の概説
「ふぁあきぁあふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい・・・」と第六段が始まる。ここに「一切如来の智印を得たまえる如来」とあるが、教主大日如来が、そのはからいによる慈悲と智慧による実践教化の部分を象徴する如来・不空成就如来として登場する。
第二段にて、完全な覚りを展開して四つの平等の智慧に分けたが、第六段では、その中の④衆生を救う仕事を円満に成就させる智慧とはいかなるものかを開示している。
第五段では、どんなものにも価値を見出し、適材適所に活用されればすべてのものがかけがえのない宝となる智慧(平等性智)を明らかにした。それは等しくすべての生き物たちを養い培うものとして無限の価値となって輝きだす。
そこでこの第六段では、それらがどのような活動を為すべきかを説くのである。「一切如来の智印加持の般若理趣」とあり、智印とは如来の心から湧き出る様々な身口意の働きを意味する。加持とは仏の大悲心と衆生の信心の寄り添うことによって仏の不可思議な力が発現されることをいう。
仏教で行いと言うとき、それは身体による行いと口でなす言葉によってなされる行い、そして心の中でいろいろと考え思うことも行いとされる。これら凡夫の行いを三業というのに対して、仏の身口意の行いを三密という。
凡夫が仏にならい善い行いを心がけつつ、仏の側も慈悲を垂れて衆生を救う働きかけがあるならばそこに三密相応の不可思議な加持感応が起こり、衆生全体が共に働き努力して自他ともに悟りの世界に向かって精進していくことが出来る。第六段は、このようにすべてのものたちの心を成長させ育むための実際の活動に関する智慧(成所作智)を説くのである。
お釈迦様のお悟りになった境地のことを阿羅漢果という。阿羅漢という最高の悟りを獲得した人は、自分のためには為すべき事は何もないのだという。そこで無為とも無学とも言われ、もはや悟りのために学ぶべき事はないという。当然ながら悪事をなすことはなく、たとえ善い行為を行っても来世に繋がる業にはならないと言われる。しかし、唯一、世の中の人々を教え導く仕事のみ残されているのである。
お釈迦様は縁ある衆生すべてに対して分け隔てなく教えを垂れた。外道と言われる異教徒たちに対しても、どんなに攻撃的な問答に対しても、落ち着いた心のまま、その人が良くあるように教え諭された。その人が一歩でも悟りに近づくことを願って、教え導かれたのである。
四種の印
そうした仏の他に教え教化して共に悟りの世界に導く慈悲の心に応えるべく、凡夫である私たちはどうあればよいのであろうか。お釈迦様の私たちへ向けられた心にふさわしい働きとは何か、それを説くのが、次なる四種の印の教えである。
まず、「一切如来の身印を持すれば一切如来の身を為す」とある。身印を持するとは、自らのためにではなく、仏のように他を悟らしめ、他を救わんがために奉仕して働くということ。そうすれば自ずと一切如来の身を得ているのと同じ事なのだというのである。
次に、「一切如来の語印を持すれば一切如来の法を得る」とあるが、これは、今日のように様々な情報が乱れ飛び、流言飛語、異端邪説が横行する世の中にあっても、縁ある人々を正しい教えに導き、仏のように他の者のためのみに真摯に教えを説くことで、一切如来の正法を体得することが出来るというのである。
そして、「一切如来の心印を持すれば一切如来の三摩地を證す」とあるが、これは、人々を仏の教えに導くためには様々な障害、困難が待ち構えているけれども、堅忍不抜の心でそれらを克服して人々を正法に導くことで、自らも三摩地つまり悟りを證することができるというのである。
さらに、「一切如来の金剛印を持すれば一切如来の身口意業の最勝の悉地を成就す」とある。金剛の印とは身口意の仏の働きが一体となって自在の活動を為すことで人々を救うこと。それがダイヤモンド(金剛)のような堅固な智慧の働きとなることで、最も勝れた悟りを成し遂げることができるというのである。
仏のように働く、仏のように法を説く、人々を救うと言っても、それはそう簡単なことではないだろう。しかし、何事もそれを理想として少しでも真似て馴染み、なりきることによって本物に近づいていくものなのではないか。
私なども、法事の後の法話など、はじめは自ら何を言わんとしていたのかさえも分からなくなることを繰り返しつつも、こらえて学び思惟しつつ何度も説き続けることで、徐々にその真意が伝わるようにもなるであろう。何事もひるんだり、飽きたり、へこたれることなく、お釈迦様の衆生に対する眼差しに応えて、自らを奮励督励し続けることが必要なのであろう。
第六段の功徳
この段も、教えを聞く菩薩衆の代表である金剛手菩薩に呼びかけ功徳が説かれる。この教えを聞き受け取り、思索するならば、すべてに自在となり智慧とその働きと果徳を得ることができる。さらには、仏の身口意とそれらを一体とした妙果を得ることで無上なる正しき悟りをすみやかに証得するという。
「即身成仏」とも言われるが、それは、この身このまますぐに成仏するというような簡単なことではないであろう。大切なことは、この身において、将来ではなく来世でなく今を大切に、すべてのものたちの最高の幸せのために努力することがそのまま悟りに繋がっているのだと受け取ってはいかがかと思う。
金剛拳菩薩の心真言
そして最後に改めて、世尊大日如来が不空成就如来から娑婆世界での姿として金剛拳菩薩に変化されて、仏と衆生の心と行いが一つになる瞑想に入られた。
そしてその教えを自らの姿に現そうとされて、法悦の微笑をたたえ、左右の手に金剛拳をつくり左は仰げて腹の前に置き右はその上に覆いしかも着けずに重ねる三摩耶の印を結んで、真実なる心真言「アーハ」を唱えた。
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「ふぁあきぁあふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい・・・」と第六段が始まる。ここに「一切如来の智印を得たまえる如来」とあるが、教主大日如来が、そのはからいによる慈悲と智慧による実践教化の部分を象徴する如来・不空成就如来として登場する。
第二段にて、完全な覚りを展開して四つの平等の智慧に分けたが、第六段では、その中の④衆生を救う仕事を円満に成就させる智慧とはいかなるものかを開示している。
第五段では、どんなものにも価値を見出し、適材適所に活用されればすべてのものがかけがえのない宝となる智慧(平等性智)を明らかにした。それは等しくすべての生き物たちを養い培うものとして無限の価値となって輝きだす。
そこでこの第六段では、それらがどのような活動を為すべきかを説くのである。「一切如来の智印加持の般若理趣」とあり、智印とは如来の心から湧き出る様々な身口意の働きを意味する。加持とは仏の大悲心と衆生の信心の寄り添うことによって仏の不可思議な力が発現されることをいう。
仏教で行いと言うとき、それは身体による行いと口でなす言葉によってなされる行い、そして心の中でいろいろと考え思うことも行いとされる。これら凡夫の行いを三業というのに対して、仏の身口意の行いを三密という。
凡夫が仏にならい善い行いを心がけつつ、仏の側も慈悲を垂れて衆生を救う働きかけがあるならばそこに三密相応の不可思議な加持感応が起こり、衆生全体が共に働き努力して自他ともに悟りの世界に向かって精進していくことが出来る。第六段は、このようにすべてのものたちの心を成長させ育むための実際の活動に関する智慧(成所作智)を説くのである。
お釈迦様のお悟りになった境地のことを阿羅漢果という。阿羅漢という最高の悟りを獲得した人は、自分のためには為すべき事は何もないのだという。そこで無為とも無学とも言われ、もはや悟りのために学ぶべき事はないという。当然ながら悪事をなすことはなく、たとえ善い行為を行っても来世に繋がる業にはならないと言われる。しかし、唯一、世の中の人々を教え導く仕事のみ残されているのである。
お釈迦様は縁ある衆生すべてに対して分け隔てなく教えを垂れた。外道と言われる異教徒たちに対しても、どんなに攻撃的な問答に対しても、落ち着いた心のまま、その人が良くあるように教え諭された。その人が一歩でも悟りに近づくことを願って、教え導かれたのである。
四種の印
そうした仏の他に教え教化して共に悟りの世界に導く慈悲の心に応えるべく、凡夫である私たちはどうあればよいのであろうか。お釈迦様の私たちへ向けられた心にふさわしい働きとは何か、それを説くのが、次なる四種の印の教えである。
まず、「一切如来の身印を持すれば一切如来の身を為す」とある。身印を持するとは、自らのためにではなく、仏のように他を悟らしめ、他を救わんがために奉仕して働くということ。そうすれば自ずと一切如来の身を得ているのと同じ事なのだというのである。
次に、「一切如来の語印を持すれば一切如来の法を得る」とあるが、これは、今日のように様々な情報が乱れ飛び、流言飛語、異端邪説が横行する世の中にあっても、縁ある人々を正しい教えに導き、仏のように他の者のためのみに真摯に教えを説くことで、一切如来の正法を体得することが出来るというのである。
そして、「一切如来の心印を持すれば一切如来の三摩地を證す」とあるが、これは、人々を仏の教えに導くためには様々な障害、困難が待ち構えているけれども、堅忍不抜の心でそれらを克服して人々を正法に導くことで、自らも三摩地つまり悟りを證することができるというのである。
さらに、「一切如来の金剛印を持すれば一切如来の身口意業の最勝の悉地を成就す」とある。金剛の印とは身口意の仏の働きが一体となって自在の活動を為すことで人々を救うこと。それがダイヤモンド(金剛)のような堅固な智慧の働きとなることで、最も勝れた悟りを成し遂げることができるというのである。
仏のように働く、仏のように法を説く、人々を救うと言っても、それはそう簡単なことではないだろう。しかし、何事もそれを理想として少しでも真似て馴染み、なりきることによって本物に近づいていくものなのではないか。
私なども、法事の後の法話など、はじめは自ら何を言わんとしていたのかさえも分からなくなることを繰り返しつつも、こらえて学び思惟しつつ何度も説き続けることで、徐々にその真意が伝わるようにもなるであろう。何事もひるんだり、飽きたり、へこたれることなく、お釈迦様の衆生に対する眼差しに応えて、自らを奮励督励し続けることが必要なのであろう。
第六段の功徳
この段も、教えを聞く菩薩衆の代表である金剛手菩薩に呼びかけ功徳が説かれる。この教えを聞き受け取り、思索するならば、すべてに自在となり智慧とその働きと果徳を得ることができる。さらには、仏の身口意とそれらを一体とした妙果を得ることで無上なる正しき悟りをすみやかに証得するという。
「即身成仏」とも言われるが、それは、この身このまますぐに成仏するというような簡単なことではないであろう。大切なことは、この身において、将来ではなく来世でなく今を大切に、すべてのものたちの最高の幸せのために努力することがそのまま悟りに繋がっているのだと受け取ってはいかがかと思う。
金剛拳菩薩の心真言
そして最後に改めて、世尊大日如来が不空成就如来から娑婆世界での姿として金剛拳菩薩に変化されて、仏と衆生の心と行いが一つになる瞑想に入られた。
そしてその教えを自らの姿に現そうとされて、法悦の微笑をたたえ、左右の手に金剛拳をつくり左は仰げて腹の前に置き右はその上に覆いしかも着けずに重ねる三摩耶の印を結んで、真実なる心真言「アーハ」を唱えた。
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何事も言うは安く行うは難し。言うように何事も出来たらよいのですが、大変なことと実感しています。だからそういうことも含めてこの世は苦なのだとお釈迦様は言われているのかもしれません。
思い通りにはならない。理想どおりにはできない。言ったはしから状況も変わっていく。右往左往している間に取り残されて私たちの人生は終わってしまう。
寸時を惜しんで今正に何をすべきかと考えることが必要なのでしょう。頑張りましょう。
聞いた話では、お遍路の途中、お寺に宿を借りようとして、お寺の住職に憎悪丸出しで追い払われたという話しを聞いたり、結縁の儀式の際、別の所に落ちた花をわざとずらして本来の結縁本尊でない仏を本尊にしていたり、信者に対して見下す態度をとったりしているという話があるようです。
他には、修行と称して虐待しているというのも…。
これが仏道を極めた結果かと思うと、ガッカリします。『人間だから仕方ない』と言い返されるやもしれませんが、単なる言い訳に聞こえます。ましてや、僧侶がそんな台詞を吐く事は有ってはならぬ事。そんな台詞を吐く位なら、還俗した方がよろしい。仏教者は己を律してなんぼ。僧侶なら尚更。
僧侶の仕事は、仏法を広め、人々に施す事に尽きます。人を困らせる僧侶は、僧侶じゃない。僧侶のコスプレをした、ただの人。
私はそんな人間の背中を後押しする気にはならないし、仮に僧侶を志して弟子入りするとしても、その様な人間の元で修行はしたくないです。心が荒んでロクな僧侶になれませんから。
一部の僧侶の中には、全雄さんの様にブログを通じて、仏法を広めている方がいらっしゃいます。私はそういう方に魅力を感じます。
そういう方がどんどん増えてくれる事を願わずには居られません。そういう方が増えれば、きっと仏教は元の輝きを取り戻す筈です。
私は在俗乍ら、友人や、SNSで仏法を伝えています。1人でも、正しく仏教を認識出来る人が増える事を願いつつ。
そうですね、成仏と言うとき、亡くなった人を連想するかもしれません。日本では何事も真綿にくるんだような言い方をして相手に気持ちを表すというところがありますから、どうしても、みんな仏様のような御顔で逝かれましたというような言い方から、仏様と亡くなった人を表現しがちです。
勿論そんな言い方をする日本人の精神習慣は悪いことではないと思います。相手を思いやり、悲しみに暮れる人に少しでも心癒してもらいたいというやさしい心がなすことです。ですが、はじめは誰もがそういう了解のもとに使っていた言葉が、どうやらみんな亡くなれば仏という感覚が定着し、仏教者までもが死ねば皆仏のような言い方をして、とどのつまりはみんな死ねば成仏するということになってきて、イヤイヤ、それはただそのように表現するだけで、本当の成仏とは違うのですよと、言いにくくなっているのが現状ではないかと思います。
なんだ死ねばみんな仏なら、何もする必要もない、何を守る必要もないということになって、仏教の教えさえ顧みられなくなったしまった。それが今の日本仏教ではないでしょうか。
こういうことを書くと、そんなことあたりまえのことでしょうと言われそうですが、おそらくそう言う人がまたどなたか亡くなると死んだ人を仏様はと言っているのだと思います。その背景には悟りとは何で、悟った人とはこう違うのだということを説くことをしない日本の仏教者の怠慢があるのだと思います。
『成仏』と聞くと、大抵の人は『あの世で仏に成る』という認識が強く、『即身仏』と言うと、今度は『ミイラ化した遺体』と連想されてしまいます。
私も、真言宗と出会う前はそんな考えでした。しかし、学んでいく内に、『違う』と感じる様になりました。
あの世で仏に成るのは、間違ってはいないのですが、即身成仏となると、そうはいきません。『生きて仏に成る』を文字通りに捉えると、怪しいモノにしかなりません。本当は、何ものにも囚われず、自由な心を手にし、生ける者全てを慈しみ、導く存在。その境地こそ、お大師様の言う『即身成仏』ではなかろうかと私は思います。
某仏教教団が言う『○○を唱え信じれば、成仏出来るが、○○以外を信仰すると地獄に堕ちる』というのは、仏教の教えと違います。本当の仏教者は、そんな視野の狭い事を言いません。世界には、様々な人、信仰、文化があります。一方が否定し、排撃しようとすれば、された相手も攻撃して来ます。それは、自分自身を傷つける事と同じ。何故なら、相手も自分の分身だからです。お釈迦様は、どんな人間であろうと、暖かく迎え入れ、説法なさいました。
時は下り、お大師様も、『密教は、諸教を含む』と説き、違う信仰の人間を暖かく迎え入れています。
仏教とは、自分と違う存在を認め、受け入れる事から始まる。そして、それらに対し、それらも自分自身だと思って慈しみを以って接し、導いてゆく。そして、仏の境地に至る。私はそう思っています。
一神教の様に、他者を認めない教団は、どう取り繕っても平和なんて望めません。根本的に他者を受け入れる思想が無い限り、ずっと争い合う運命を辿るのみ。
本当に平和を望むなら、自分達と違う存在を認め、受け入れる事。自分達が相手を受け入れれば、相手も自分達を受け入れてくれるものです。そうやって平和が成り立つものだと思います。
成仏のお話からかなり逸れてしまいましたが、仏に成るという事は、特別な事ではないと思います。何か超人になるとか、神秘的な力を得るとか、そんなものではなく、高潔な人格の人間に成ると考えるのが妥当ではないかと私は思います。