住職のひとりごと

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善光寺ご開帳に参詣す 3

2009年05月15日 08時34分58秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
それでは定額山善光寺の諸堂並びに諸尊について述べてみよう。まずその伽藍配置は、真北に進むと仁王門、山門、金堂がある配置で堂宇が南北線上にある古代の伽藍形式。現本堂は、宝永4年(1707)の再建。高さ約27メートル、間口5間約24メートル、奥行14間約53メートルで、桧皮葺、国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいといわれている。 昭和28年(1953)3月、国宝に指定。建物は撞木(しゅもく)造りと呼ばれる屋根を持っている。撞木とは鉦、鐘などを打つT字型の法具のこと。入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造である。

入って回廊の前に賓頭廬尊者、外陣左に閻魔大王、内陣前には、来迎二十五菩薩、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩、内々陣前に、向かってやや左側の瑠璃壇、こちらに御本尊が祀られ、正面には御三卿つまり、中央に善光寺開山の祖とされる本田善光卿像、向かって右に善光の妻弥生御前像、左は息子の善佐卿像が安置されている。瑠璃壇の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来像。綱吉の生母桂昌院寄進の御宮殿の中の厨子に納められている。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中におられる。

御本尊は白雉5年(654)孝徳天皇の勅命で絶対秘仏とされた。先にあげた『善光寺縁起』によれば、善光寺如来は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現し、その後百済に渡り、欽明天皇十三年(552)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと伝えられる。古来より「生身の如来様」といわれ、人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているという。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存している。

善光寺の御本尊の印相は、中央、阿弥陀仏は、右手は手のひらを開きこちらに向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印と言うが、薬指と親指が着いている。下品下生の印と言われている。左右の菩薩の印は梵篋印、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相。その掌の中には真珠の薬箱があるという。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っている。

今回ご開帳のお前立ちは、銅造像高42.4㎝脇侍は30㎝。鎌倉時代初期に御本尊を精緻に写したとされ、重文。7年ごとに御三卿の間の左に宮殿を設けてご開帳される。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている瑠璃壇の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が500円で入場券を購入し阿弥陀如来へ祈祷後に体験できる。

三門(山門)は、寛延3年(1750)に建てられた重文。高さ20メートル幅20メートルの楼門。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺き(とちぶき)に改められた。栩葺きとはサワラの板材で屋根を葺く方式。扁額は鳩が五羽隠された鳩文字。輪王寺宮公澄法親王の字。昔は楼上に木像百羅漢像が安置されていた。今は、文殊菩薩に四天王像。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。

経蔵は宝暦9年(1759)落慶の重文。方15メートルの宝形造り。江戸時代の鉄眼版一切経6771巻を納める輪蔵がある。輪蔵は、腕木を押して回すと、一切経を読誦した功徳ありという。中国南北朝時代に輪蔵を発案した傳大士(ふだいし)と二人の息子の像がある。釈迦如来、如意輪観音を祀る。

梵鐘は、寛永9年(1632)の銘がある鐘が破損して、寛文7年(1667)に新鋳したのが現在の銅鐘。高さ180センチ。この他沢山の文化財がある。善光寺造営図 1巻 源氏物語事書(大勧進所有)重要美術品。銅造地蔵菩薩坐像(通称:濡仏)享保7年(1722)銘。釈迦涅槃像銅造166㎝。鎌倉時代重文。出開帳の時には前立本尊と共に各地に運ばれた。善光寺参道(敷石)史跡(市指定)1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。算額 天保3年(1832)3月 吉田玄魁堂門人田原小野右衛門忠継他5名奉納。 算額 天保4年(1833)仲秋 武内担度道門人山下喜総太宣満他4名奉納。

なお、ご開帳には、寺がある場所で開催する『居開帳』の他に、大都市に出向いて開催する『出開帳』があった。出開帳には、江戸、京都、大阪で開催する『三都開帳』や諸国を回る 『回国開帳』がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。

今回の善光寺のご開帳の正式名は、「善光寺前立本尊御開帳」。7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度の丑年と未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。普段、前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶという。

期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益があるとされる。回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉を使用。

また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏様である釈迦如来と来世の仏様である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。

江戸時代の居開帳は、1730年から始まり、八年から十数年の間をおいて開帳されてきた。今日のような七年に一度のご開帳は明治以後であり、 丑年と未年開催が慣例となるのは1955年から。 2003年には同時期に甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳となり、今回は、岐阜市の岐阜善光寺、関市の関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となる。

なお、寺内に、寛慶寺という大寺が位置しているが、このお寺は、浄土宗総本山知恩院の末寺にして、寿福山無量院寛慶寺という。はじめ、治承4年(1180)九月栗田城主 、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当栗田範覚に依り栗田の地にお寺が建てられ栗田寺といったが、栗田氏は代々戸隠山別当を世襲し寛覚の代に至り、鎌倉幕府より更に善光寺別当をも任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲。栗田寛慶、明応5年(1496)十二月没するとその子寛安は、父の遺言に依り栗田寺を善光寺東門(現在地)に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。天正10年(1582)洞誉春虎(どうよしゅんこ)和尚を招じ開山第一世とし、以来二十世四百年連綿法灯を継承という。

なお、西国巡礼のお礼参りに古来善光寺と北向観音に参る習慣があるが、現在では、高野山にお礼参りする人もあるという。しかし、平安後期頃から教えを聞くだけでなく、自ら善行功徳を積むべきであるとの考えから、霊地霊蹟へ参る習慣ができはじめると、いつの時代からか、たとえば東国から入る場合に、西国参りの前に伊勢神宮に参り、熊野詣でを済ませてから観音巡礼をスタートし、最後にお礼参りとして善光寺に参って帰路につくという誠に長期の参詣の旅が一つの定型となっていったようだ。

当時既に浄土教が浸透していた時代でもあり、観音の聖地に修行して現世の利益を願い、その観音の母体とも言える阿弥陀如来に最後参って来世の極楽往生を願うというときに、やはり、日本最古の霊験あらたかな善光寺如来に参詣しなければという気持ちに巡礼者を誘ったものだと言っても不都合はあるまい。それだけ当時から善光寺は有名であり、またその威徳は高かったのだと言えよう。

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2 コメント

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Unknown (株式会社セロリ工事担当)
2009-05-15 11:01:01
はじめまして。
いろいろなお寺のご住職様からのお引合があるので、お寺のことも勉強していこうと「お寺 ご住職 ブログ」で検索して、拝見させていただきました。
大変 勉強になりました。
ありがとうございました。
返信する
セロリ様 (全雄)
2009-05-24 18:42:13
はじめまして。世のためになるお仕事、繁昌なさることを祈っています。
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