住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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善光寺ご開帳に参詣す 2

2009年05月13日 11時55分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
以上がおおよその善光寺縁起であるが、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座したらしい。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。おおよそ11世紀前半ごろから貴族を中心に浄土信仰が盛んになり、しだいに善光寺聖と呼ばれる念仏聖が本尊のご分身仏を背負い、この縁起を絵解きして、全国津々浦々を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めていったのだった。

善光寺縁起は、後に作られた物語にせよ、実際に善光寺の周辺からは、白鳳時代の瓦が度々発見されているという。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかっている。また、平安後期12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えている。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地を寄進した。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立された。現在では全国善光寺会という組織ができ、200以上の寺社が加盟して2年に一度善光寺サミットが開催されている。また、鎌倉時代には東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝した記録が残っている。

戦国時代に入ると、善光寺平では甲斐武田信玄と越後上杉謙信が信濃の覇権を巡り川中島の合戦を繰り広げた。当時善光寺平は上杉の支配にあり、謙信は寺宝のいくつかを本拠地に移した。しかしその後、弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移す。その地が現在は甲斐善光寺となっている。現在は浄土宗。

その後快進撃を続けた武田家だったが信玄歿後、織田・徳川連合軍に敗れると、信長は御本尊を岐阜に遷座させてしまう。その三ヶ月後に本能寺に信長は没して、美濃の所領を分割された信雄(のぶかつ)は、尾張清洲城近くの甚目寺(じもくじ)に遷座させるも、信雄と同盟を結んだ家康が、その翌年には、浜松の鴨江寺に移す。しかし家康の夢枕に善光寺如来が立ったとのことで、また、甲斐の善光寺に再び遷座、十数年を過ごす。

しかしその後天下人になった豊臣秀吉が京都に奈良の大仏よりも大きな大仏を建造した方広寺の造営に当たり、地震で落慶目前に倒壊した大仏の代わりに御本尊として善光寺如来を移し祀った。しかし、それ以来京には疫病が流行り、秀吉の周辺でも不幸が続き、自らもにわかに病に罹る。秀吉は如来の祟りと思って、信濃善光寺へ善光寺如来をお還しすることにして、善光寺如来が京を出発したその翌日秀吉は伏見城で亡くなったという。こんな風聞がまた庶民の信仰を煽ったのであろう。

42年振りにご本尊が戻った善光寺は戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされた。しかしその後江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げた。泰平の世が到来すると、「一生に一度は善光寺詣り」との言葉が流布して、念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いくれる、男女平等、地位や身分の上下にかかわらず人々の救済を説く寺院として知られていった。

ところで、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴であり、当時の絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれているという。創建以来十数回の火災に遭い、江戸時代に入ってからも火災に遭っているが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって浄財が寄せられ、宝永四年(1707)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられた。

現在善光寺は、天台宗本坊大勧進とそれに属す25院、そして、浄土宗大本願14坊が護持している。大勧進貫首と大本願上人が共に住職を兼務している。しかしそれは明治以後のことであって、おおもとには宗派のない時代を経て、宗派ができると八宗兼学と言われるように各宗の僧侶が滞在したであろう、しかし大本願の伝承では、そもそも皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・聖徳太子妃が出家され尊光上人と称し開山上人として、代々女性の上人が住職してきたのだと言う。

善光寺住職でもある善光寺上人は、かつては宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜った称号で、尼僧では信州善光寺、伊勢神宮の慶光院、熱田神宮の誓願寺が近世において日本三上人と称されていた。現在では善光寺上人のみが法燈を伝承し、住職晋山時には宮中参内が慣例になっている。現在の善光寺上人は第121世鷹司誓玉大僧正(たかつかさせいぎょくだいそうじょう)。

一方、弘仁8年に伝教大師が信濃路巡錫の際、善光寺に参籠され、それより天台の宗風により善光寺は護持されたともいう。この僧たちが、ある時期から浄土信仰をもって、善光寺の営繕修理護持のために全国に勧募する権限を持つ組織である大勧進として善光寺の全般について管理してきたものと考えられよう。

江戸時代、慶長6年(1601)徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化された。明治9年(1876)県より大本願は浄土宗・大勧進は天台宗として寺務を分掌され、明治26年(1893)大本願と大勧進の争論が県により調停されたと大本願のホームページに記されている。おそらく、これによって、両者が共に住職を兼務する現体制になったのであろう。なお、二宗管理の寺としては、当麻寺が真言宗と浄土宗の二宗で管理している。つづく

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