住職のひとりごと

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木村泰賢博士の『原始仏教思想論』(第二篇第四章「業と輪廻」)を概説し、業と輪廻の正論を学ぶ-1

2010年06月01日 19時58分20秒 | 仏教書探訪
一、仏教教理上における輪廻観の意義

私たちの生活は、お釈迦様に言わせれば、決してこの人生一度のものではなくて、業の力によって、無始無終に相続していくものだという。その業の性質に応じて死後種々の境遇、様々な生命として生を受けるが、これを業による輪廻と名付ける。

この輪廻説は、もちろん仏教から始まったものではなくて、ヴェーダ時代の終期からウパニシャッド時代にいたり有我論と相まって完成し、お釈迦様の時代には一般に認められる人生観となっていた。つまり死後霊魂の相続を説明するのに、自我という鉄砲玉が業という火薬によって一定の場所に行き、さらにそれより新たな火薬によって余所に送られるのが霊魂不滅に基づく輪廻説である。

この一般的な教理を受け入れてお釈迦様が法を説いたがために、仏教に本来あるべきものではないこの輪廻説なるものが混在したと見る人々がいる。しかし、お釈迦様が因縁所生なる生命なるが故に無我なりとされたにもかかわらず、なおかつこの業論輪廻論を認めたのには深い訳あってのことであろう。お釈迦様は実践的方面からのみこれを説くのであって、この輪廻説業説は、仏教の人生観上最も重要なる意義を帯びるものであって、これを離れては人生の種々なる相を説明することも出来なければ、その理想の帰結をも明らかにすることは出来ない。

しかるに、この無我説と業説とをいかに調和すべきかは、昔より仏教学における一大重要問題であって、これを中心として種々の教理を展開するに至っている。しかしこれは、無我ということをあまりに機械的に解するからであって、もしも、このお釈迦様の生命観を正当に理解するならば、かえって、業説輪廻説は、仏教において初めて真の哲学的意義を帯びることになったことを見いだすことが出来るであろう。

二、死後相続に関する概観

私たちは生まれると死ぬまで様々に活動し、止むことがない。肉体的には暖かく常に出入息があり、心理的には意識がある。一定の時期が来て寿命が終えると肉体は解体する。これも業の作用として然るべくあると見ることができるのであり、生あるもの必ず滅するのが法として定まれる運命である。しかしお釈迦様の教えに従うならば、その生命は絶滅し去るものではなく、意識的な活動は五根(眼・耳・鼻・舌・身)の破壊に伴い休止するが、生きようとする根本意志、すなわち無明は生前の経験・業をその性格として刻みつけて継続する。

この性格は五蘊(色・受・想・行・識)となる可能性を持ち、自らを特定の生命体に実現する力を有する。しかしこの段階で、空間的存在としてどこかに何らかの形をもってさまよっているかに解することは誤りである。身を離れ一切の意識作用を根本意志に収斂した生命である輪廻の主体は四次元の範疇に属するものと言える。後に中有身説が起こるが、これは通俗化の結果であり、本来は空間的存在として計れるものではない。

そして、その業の創造力が自らを実現せんがために、その生命の生まれ方により胎生、卵生、湿性、化生とある中で、胎生について述べるならば、男女の和合あり、その男女とガンダッバが三事和合することによって托胎の現象が起こる。ガンダッバとは神話的名称に名を借りて輪廻再生を実現化させようとする生命を繋ぐ無意識の識を意味するものであり、実際に識と表記されることもある。男女の和合を縁としてこの識が自らを胎生としての生命が再生する。そして一つの灯りが他の灯りに移るが如くに、前生の五蘊を変化的に継承して心身組織が現実化する。

しかし普通私たちには前生の記憶はない。なぜならば、お釈迦様によれば生命の本質は知識ではなく意志であるからであり、知識に伴う記憶は再生とともに滅するからである。長部経典中『大縁経』には、托胎をもって識が母胎に入るとされるが、この場合の識は生命の異名に他ならないので、意識そのものを指すのではない。いわゆる自我意識からの「識」ではないとすれば、前世の記憶がないのは当然のこととなる。お釈迦様はブッダとなってその宿命通よりして自他の過去世を知られることとなったわけで、それを普通人のなし得るのと考え、前世の記憶がないからと輪廻の有無を論じることは、仏教の本来の立場と添わないと言えよう。

三、特に業の本質について

業の本質は輪廻論の中心問題であるので、生命観に立ち戻って論じる。その場合、仏教の生命観とは五蘊の集積であると見るのはお釈迦様の業観を理解する第一歩ではあるが、その五蘊である心身を統一する原理は、表面的にはその中の「識」であり、その「識」を統一するのは「行」、特にそのうちの心的作用である意志である。お釈迦様はこの意志が「識」を統一する経過をもって人格が形成されると考えられた。生命の営む身口意による行為によって、それが心身の組織全体に影響しその意志が性格づけられるのであり、業とは、この意志の習慣づけられた性格を指す。

これを無始からの過去から今に至る私たちに当てはめて考えるならば、過去の経験の集積されたもの、つまりその業に応じ、無意識ながらも私たちの性格は形成されていると考えられる。それによって自らの生命活動があり、それがまた新しい経験としてその性格を変化させつつ、また未来の行為を規定すると考えるのである。それを無限に相続するのがいわゆる輪廻であり、その性格とそれに応じた自己の創造との間にある必然的な規定のことを業による因果というのである。

つまり生命の方向は業によって規定され、また新しい経験によって刻々と新規に業を自身に刻み、古きものともどもにその全体ないし一部が日々の活動の内容および働きを規定して、無限の複雑さを極めながらも、その間に整然たる規律があり、連続流動するというのがすなわち業による輪廻論の真髄である。これが有我論者の輪廻説との違いであり、有我論者は業とは固定した生命の境に運ばれていく原動力と捉えるが、仏教では、絶えず変化しながらすべての経験を自己に収めて、それを原動力として続く創造的進化と考える。ここにいたって、つまりお釈迦様の新たなる定義によって、まさに業論輪廻論は真に哲学的意義を帯びるに至ったと言えるのである。 つづく


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3 コメント

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Unknown (きりぎりす)
2013-09-18 16:30:37
たいへん難しい言葉が多いので理解が難儀なのですが、おさないころから知りたい、顕かに知りたいと思っていたことが、書いてあると思います。どうもありがとうございます。
返信する
きりぎりすさんへ (全雄)
2013-09-19 06:47:45
きりぎりすさん、お越し下さり、またコメントを残して下さって、ありがとうございます。

それはよかったです。木村泰賢博士は、明治時代の若くして亡くなったとても優秀な仏教学者でした。

これからも宜しくお願いします。
返信する
Unknown (きりぎりす)
2013-09-19 09:52:28
木村泰賢博士
明治、そんなにむかしではないですね。

こちらでお勉強をさせていただきます。
どうぞよろしくおねがいいたします。
返信する

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