住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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善光寺ご開帳に参詣す 1

2009年05月11日 19時45分57秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
5月26~28日、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺めぐりシリーズ」特別編として、七年に一度の善光寺ご開帳にあわせ、善光寺、北向観音はじめ周辺の霊場を参詣する。善光寺は、昔一度だけ松本に行った折に帰りしなによって、駅から歩き参詣したことがある。長い仲見世通りを歩いた印象しかないが、多くの参拝者で賑わっていたことはよく記憶している。

長いバス旅の中でじっくりと参詣寺院の縁起などについて解説するよすがに、少し調べを進めてみよう。それにしても善光寺は凄い。今でも毎年600万人もの人が参るという。その秘密は奈辺にあるのであろうか。よくよくいろいろな文献をさらってみると、どうも、女人に古来開かれたお寺だからというところにあるらしい。

女が参れば男も参る。女性に優しい、誰でも受け入れる懐の広さ、皇室や貴族のためでなく一般庶民の為に開かれたお寺、それに最も古い部類に入るお寺の由来の確かさも起因しているだろう。牛に引かれて善光寺参りの主人公も女性だった。善光寺のホームページによれば、以下のような物語がその原型だという。

『昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいました。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。女はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ。」などと怒りながらその牛を追いかけていきました。

ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつきません。そうする内に、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまいました。日は沈み牛はかき消すように見えなくなりました。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らしました。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見えます。その文字をよく見てみると、

「うしとのみ おもひはなちそ この道に なれをみちびく おのが心を」

と書いてありました。女はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かしました。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。

たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないですか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げました。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれています。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのであります』ということである。

『善光寺縁起』なるものがある。それによれば、善光寺の一光三尊阿弥陀如来は、なんとインドのお釈迦様の時代にまでその起源があるとしている。おおよその物語は以下のようである。

お釈迦様が、ヴァイシャーリーという街におられたとき、托鉢に回っても何も差し出さなかった長者が、娘が疫病に罹り薬も効かず、お釈迦様に救いを求めたところ、「西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、娘はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と言われた。(勿論これは大乗の浄土経典に基づくお話しになっている)

そこで、長者が一心に念仏すると、西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う阿弥陀三尊の御姿を顕現され大光明を放った。たちまち娘の病は癒されたが、長者はその三尊を止め置くことをお釈迦様に頼み、目連尊者が竜宮に行き、竜王から閻浮壇金(えんぶだんきん・経典に出てくる想像上の最も高貴な金)をもらい、それを手にした長者は、また一心に阿弥陀如来の来臨を乞うと出現し、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現した。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める如来様であったという。

時は流れ、百済国では日本に仏教を伝える聖明王の治世を迎えた、この王はこの阿弥陀如来を顕現した長者の生まれ変わりで、百済国に顕現し教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げた。そして、欽明天皇十三年(552)、この尊像は日本に渡ることになった。

天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになり、稲目は屋敷を向原寺と改め、如来様を安置し、毎日奉仕した。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺であった。しかし、国内でにわかに熱病が流行ると、物部尾輿はこれを口実として、向原寺に火を放った。が、如来様は不思議にも全く尊容を損うことがなく、ついに尊像を難波の堀江に投げ捨てた。

後に、聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、沈められた尊像を宮中にお連れしようと祈念されると如来様は一度水面に浮上し、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時だ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠した。

ある時、信濃国の本田善光が国司に伴って都に参った。この難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は、善光が過去世にインドでは月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になった。

そして、この日本でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになる。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰り、西のひさしの臼の上に安置。やがて御堂を建てて如来様を移したが、翌朝、最初に安置した臼の上に戻っていた。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになったという。

善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様だったが、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯された。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりという。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶たなかった。

そこで、時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下された。こうして、三国伝来の生身の一光三尊阿弥陀如来を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称した。以来千四百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として全国の老若男女に信仰されるようになったのだという。つづく

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