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雲照律師『仏教原論』(P40~P44)に学ぶ わが国における仏教の価値

2010年06月26日 14時00分07秒 | 仏教書探訪
釈雲照律師(1827-1909)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請わしめた明治の傑僧である。生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り、午後は食事を摂られなかった。慈雲尊者の唱導した正法律を復興され、東京に出て目白僧園を構えて戒律学校を開き若い如法の僧侶を養成した。慈雲尊者の唱えた十善の教えを広く朝野の貴紳諸兄を始め多くの信徒に宣揚し、欧化思想蔓延する時代に神儒仏を基本に据えた本来の日本を取り戻すべく、文字通り身命を賭す生涯を送られた誠に尊い方であった。

雲照律師述『仏教原論』(明治38年博文館刊)の第五章「佛教は原因結果の真理を演繹するものにして因果を離れて別の法無きことを辨ず」の中で、雲照律師は当時の人々の宗教観の無残な変貌ぶりを嘆かれ、本来のわが国にとっての佛教の位置について以下のように述べられている。(明治の文体なので現代語に置き換えて抄録する)

「今日の日本人が宗教に冷淡なのは固有の天性であるという人があるけれども、決してそうではない。日本人が今日のようになってしまったのは、これはひとえに、習い性となったのであり、明治の維新前後に教育を受けた人たちは皆、これは水戸学派(儒学思想を中心として国学史学神道を結合させたもの、皇室の尊厳を説き、排仏のイデオロギーを持つ)の教育の力の致すところであって、それは江戸幕府の始めに萌芽した悪弊であって、林派に教育を担当させ、諸藩学校と称するものこの学派でなければ公許されなかったため、純白な児童の頭に自ずから陶冶されたのである。

しかるに、今を遡る千三百余年前、推古天皇帝位にお就きになり、聖徳太子を皇太子とされ、太子はことに仏教を尊信弘通されて国民安心の大本となされた。儒教を倫理の範とし、神道を国家の本体として、仏教を百事の精神となされたのである。

十七条憲法によれば、「第二条 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり、すなわち三宝は胎・卵・湿・化によって生まれてくるすべての衆生のより所であり、万国の究極の教えであり、いつの時代でも誰でも三宝の教えを尊ばない人はない、人には甚だ悪しき人は少ないので教え聞かせたならこれに従うようになる、それには三宝に帰依することなくどうしてその狂いを直すことが出来ようか。」と記されている。

このように太子は国民の安心の基礎を定められ、寺を建て僧侶を出家させ、自ら経典を講じて、仏像を彫りまた描かれて、礼拝供養して心を尽くされた。宮中の儀式も皆仏教をもってその精神とされ、人々が都に入れば、高塔、大殿、僧院、伽藍の美観がまず目に入り、君子も民衆も上下の区別無く仏を信仰し法を敬う精神はここに実現したのである。これにより文化が日々に開かれていく。

そして、これを範として歴代の天皇も仏教を尊信なされたが、ことに嵯峨天皇(帝位809-822)は、三教の根源に遡られ、仏教教理についてはその奥義を究められた。弘法大師を請ぜられて国師とされ、三密(身・口・意の仏の行いを行ずる真言宗の教え)を奥深く研鑽され、神道の根底に達して、両部神道の妙旨を伝えられた。これによって仏教は、異国の宗教ではなく、皇国の宗教となったのである。だからのちの後宇多法皇(帝位1274-1286)はその遺告に、

「考えてみるに、わが大日本国なる国号は人為的なものではなく自然法爾の称号であって、密教に相応しい法身大日如来の仏国土である。だから、私の後に続く受法の弟子、並びに皇統を伝える天皇は、盛衰を同じくしなさい。興替を同じくしなさい。もし、我が仏法が断絶・荒廃すると、皇統も同様に廃滅するであろう。またわが寺が復興すると、天皇のまつりごとも安泰であろう。決して私のこの考えに背き、後悔してはならない。」(大本山大覚寺発行武内孝善高野山大学教授訳『詳解後宇多法皇宸翰御手印遺告』より訳文参照)と認められているのである。

これより先きに、宇多法皇(帝位887-896)は、その尊位を返上され法衣を着されて、三密の秘奥を伝え、弘法大師から第五世の祖として、仏祖正統の法脈を継ぎ秘密十二流の大祖とならせられた。これにより、宰相以下百官ことごとく三宝を尊信すること益々盛んとなり、おそらく古今万国において、これに匹敵するほど仏法盛んなることはなかったであろう。

その後天皇はじめその臣下においても剃髪得度される方々が益々多く、最近では、後水尾天皇(帝位1611-1628)が、落飾出家なされ三密の法を伝えられている。また、徳川家康公は、法服を着し、伊豆般若寺にて、関東関西の密宗の僧侶を集めて、三密の奥義を討論させている。そのとき自ら学頭の職位に座し、その討議を行司せられたが、そのとき「私は三軍の指揮を執って何度も列戦死地に赴いてきたけれども、今日ほど脇の下に汗を流したことはない」と感想を述べられたという。

このように仏教がわが国に渡来してより、一千余年間、藤原鎌足公を始め、菅原道真公、楠木正成公、徳川家康公、加藤清正公、上杉謙信公、毛利公、島津公などの諸公にいたるまで篤く仏教を崇信せられたことを考えれば、そもそもわが国における仏教の旺盛なことは知られよう。しかし、それにもかかわらず江戸幕府の末路より今日の形勢に至り、全く相背馳する様相を呈しているのは、これ冒頭に述べたように、ただただ教育の方針いかんによるのであり、同じ日本人種をほとんど異人種の如くにしてしまったことは実に驚くべきことである。」このように雲照律師は日本における仏教の旺盛な時代の主だった事績を指摘して、わが国における仏教の本来の価値について述べられている。

それは、今の私たちが想像するよりも遙かに、日本の国にとって、つまり政治や経済の分野においても、また人々の精神文化を培う上でも大きな影響力あるものだったのである。明治時代に禅を世界に伝えた鈴木大拙師は、日本から仏教を除いてしまったら何が残るのだろうかと言われたが、まさに至言。雲照律師が述べられている幕末から施されていく国学を中心とする子弟教育は、その後戦時下での国家神道へと変化し日本人の精神に大きな陰をもたらした。さらに戦後の信教の自由という無宗教化、キリスト教文化の浸透、新宗教の乱立、オウム事件を経て現在の私たち日本人は宗教に関し全くの無知にさせられてしまった。ことに仏教に対して無関心無視を決め込むような現状に至らせた原因は、もちろん仏教僧の破戒の現状にも大きな原因が求められようが、雲照律師が言われるように、学校また家庭における長きにわたる宗教教育の貧困が大きく影響しているであろう。

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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-02-28 23:48:45
先祖は水戸学の徒。なるほど義公以降一族郎仏教は無縁の由縁を知りました。
返信する
Shahpuhr様 (全雄)
2010-07-17 08:32:44
いつも貴重なご指摘をいただきましてありがとうございます。目白僧園が今はどこにも跡形もないことは知っておりましたが、その当時のいきさつなどは存知ませんでした。

金乗院は目白不動を名乗り、江戸33観音の札所にもなっています。代々木八幡の雲照寺には一度伺ってお墓に詣でたことがあります。

私は雲照律師を敬愛している身にすぎず、私たちの時代的に近く、お徳の高い方に何事かを学ばねばならないと考えております。
返信する
目白僧園の跡地は今 (Shahpuhr)
2010-07-15 10:43:47
久しぶりに覗かせていただきましたが、各所でこのHPの評価が高まっているみたいで、祝着に存じます。 

 以前から時々言及させていただいているので、既にお察しとは思いますが、毎日雲照様の写真に手を合わせております私は彼の孫弟子から頂戴した十善戒の戒名の中に「照」(真言宗ではよくあるものですが)の一字をいれていただいています。

長文になって失礼致しますが、以下は私が直に集めた知識を中心に纏めたものなので。纏まったかたちではどの市販本にも論文にも書かれていないことです。雲照さんに関心がおありの方々の時間浪費を防ぐ為に、補足させて載せさせて頂きたいと思います。

<目白僧園について>
目白僧園のあった場所は東〔東豊山〕新長谷寺の境内の西の隅です。明治年間には会員向けに『十善宝窟』という月刊誌を発行していた。この新長谷寺というお寺は目白不動と呼ばれる不動明王が御本尊だったのでこの界隈に目白という名がついたわけです。新長谷寺は特殊な寺であって、近隣にある大寺院護国寺(現在は豊山派宗務所がある)の末寺ではなくて護国寺同様に奈良の長谷寺の直末寺であった。つまり真言宗豊山派の管轄だったというわけです。護国寺ではそれ以上のことが判りませんでした。それにあまり資料をみせてくれないようです(同じ敷地内にあっても豊山派宗務所は不必要な秘密主義でけち、護国寺事務所は親切)。

 雲照様が失意の内に亡くなられたのはこの場所です。目白僧園は雲照律師の還化の後に閉鎖されてお墓のある雲照寺(〒151-0066 東京都渋谷区西原3丁目31-1TEL: 03-3469-8088)にお弟子さんの一部が移った。雲照さんがお使いになった護摩檀などはこのお寺に残っているようです。雲照さん一門が去った後の新長谷寺ですが、昭和二十年の東京大空襲で焼かれてしまった。幸いに御本尊は焼け残ったのですが、ひとまず近隣の金乗院というお寺が預かった。
 雲照律師の遺骨は分骨されて複数のお寺に葬られた。東京の雲照寺の他のお墓は倉敷の宝嶋寺、西那須野の雲照寺、東京都中野区の明治寺(西那須とは住職が親戚)、かつて雲照律師が門跡をつとめられた仁和寺の歴代門跡墓所(仁和寺境内にはなく、非公開)です。

Wikipediaで金乗院を検索すると説明が載っている。
 ......新長谷寺はその後第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、昭和20年(1945年)に廃寺となってしまった。..........

廃寺とはなんとも妙な話であって、たとえ全焼しても土地は豊山派のものなので、名刹を復興すればよいだけの話ですが、本尊を預かった金乗院の住職は同派の有力者であり、また豊山派はお金が必要だったのか住友不動産に売却して巨利を得たようです。それで今は目白台ハウスというまんしょんになっている。講談社社主の野間さん邸のま向かいです。ここは文化勲章受章者勲一等なぎぜんしゃせとうちじゃくちょうさんもかつてお住まいだったところです。西隣には昔から小学校がある。

所在地東京都文京区関口2丁目5-14
最寄り駅東京メトロ有楽町線 江戸川橋 9分
東京メトロ東西線 早稲田 16分
現時点(2010.7.14)で売り準備の物件があるようです。
http://sumai.homes.co.jp/マンション売却/マンション情報/aid=393945/

かくして現在ではおのづかさんの金乗院は目白不動を名乗っている。ちゃっかりしている感じがします。

真言宗豊山派がお金に眼がくらんで(如何なる事情があったにせよ、売ってはいけないものを売却した以上は結果的にそうです)、歴史的な名刹を復興しなかったから、雲照律師と目白僧園が歴史から抹消されてしまうことになった。東京都文京区教育委員会の史跡ぷれーとすら立っていない(護国寺に問い合わせても知らないという答えで、情報を把握できていない故)有様なので、とんでもない話です。雲照律師を敬遠する真言宗全体の雰囲気も一役かっているみたい。



明治維新で廃止された後七日御修法ですが、未だ完全復興(宮中真言院での玉体加持)はまだ成っていないもののかろうじて御修法の部分的な復興を成功させた雲照律師がおられなかったら、真言宗は明治年間に崩壊していたことは間違いないことです。しかし戒律について心得違いをしている真言宗の坊さんが多いので、敬して遠ざける姿勢を採っているのには困ったことです。真言宗の坊さんにもその名を知らない人がいることを知って私は呆れ果てました。

そのような中でこのHPの主催者である〔横山〕全雄 師が雲照律師の復権を機会を見つけては少しずつ行なっておられることには敬服しております。 何かのかたちで必ずやその道心とご努力報われる日がくるでしょう。

記述の中にちょっとした間違いを見つけましたが、長くなりすぎるので、また。

東京にお越しの際には上記の諸処を訪れになって往時を偲ばれるのも興味深いと存じます。
返信する
社会も真理の現れ (全雄)
2010-06-26 20:32:56
aiu様、お越し下り、コメントまで残して下さいまして、ありがとうございます。

普遍的な教えは、誰にでも適用できる教えのことであろうと思います。○○教徒だからという枠のない教えです。

お釈迦様の教えはもともとそのようなものであったはずです。バラモンでも、他の修行者でも、誰でも訪ねてきた人に教えを垂れ、共に歩んで行かれた。

そもそも崇拝するようなものもなく、ただ心の平安を求められた。それは崇拝することではなく、自らの心を正していく道でした。

だからこそどの国にも浸透していった。諍いも軍隊も用いずに。平和な教え、それがお釈迦様の教えでした。

それはすべてを因果で見ていく。因果、因果だけがある。すべての事柄に原因があり結果がある。社会もその真理の現れに過ぎません。

この記事にあるように、純白な児童の頭に何を入れていくのか。そこに人類の叡智でもあるお釈迦様の教え、縁起や慈悲の教えを入れていく、それこそが社会を変えていく最も賢い近道とは言えないでしょうか。

国力とは一部の人間が富むことではなく、国民全体が真に賢くなることではないかと思います。
返信する
こんにちは (aiu)
2010-06-26 14:38:19
新着記事欄を見て、こちらのブログを拝見しております。

ところで、現在の荒んだ日本の社会、政治状況は、徳という、人生に於いて基盤となるべき価値観を蔑ろにした、まさに悪徳のやりたい放題という感じだと思います。

なので、このような迷走した社会状況では、その心の隙間に様々な邪な価値観が入り込み、例えば「天皇教」が日本の伝統的価値観であるなどという、カルト的な流れが席巻しかねません。事実、東京都では君が代や日の丸に反対した教師が解雇され、裁判になっていたりします。

私は、あらゆる宗教の本質は「一つ」であると思っています。そして、その本質を言い換えると「神道」と著すのかと考えます。

つまり、日本に於いて、始まりも終わりもない普遍的な「一つ」、真理と言っても良いと思いますが、その、一般的に人間の頭脳がつかみ難いものを具現化して人々に伝えている仕組み‥それが、仏教ではないかと思っています。

因みに、一般的に信じられている「神道という宗教」は、その時代時代に於いて、権力者の都合、大衆をコントロールする為の道具として変遷してきたであろう事を、忘れてはならないと思いますよ。(長くなり、すみません)

http://blog.goo.ne.jp/aiu_kikaku
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