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先日ある方から、若々しくあるためにはどうしたらいいですかと質問を受けた。その瞬間、これは初めての質問内容だなと思ったが、とっさに「まあ、身体は毎日というか、一瞬一瞬老化していっていますから、それはやむを得ないと思って下さい」と言った。私たちは生まれ落ちた瞬間から老病死を生きている。老いつつあり、病気になり、死していく。それはもうどうしようもないことわりだと言っていい。
しかし心の方は日々新たに生まれ変わり生まれ変わり新鮮な心を常に蓄えていることは可能だろう。その時次に上げる三つのことを申し上げた。深く考えて言ったことでもないので、不足のこともあろうし当たっているかは別としてここに述べてみよう。
まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。
あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。
今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。
第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。
第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。
また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。
ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。
はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。
自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。
自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。
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しかし心の方は日々新たに生まれ変わり生まれ変わり新鮮な心を常に蓄えていることは可能だろう。その時次に上げる三つのことを申し上げた。深く考えて言ったことでもないので、不足のこともあろうし当たっているかは別としてここに述べてみよう。
まず第一に、今に生きるということ。私たちはどうしても過去にこだわり未来に希望や望みを託す。そして今がおろそかになる。「一夜賢者経」という経典にお釈迦様が教えられているように、過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず。ただいまなすべきことを正になせ。これである。
あれこれ過去のことを後悔したり、また過去の栄光に酔ってみたり。過去は過去であって、今のあなたではない。また、先のことを心配し、将来の絵空事に胸を沸き立たせるということもあるかもしれないが、それも今のあなたではない。
今にあなたがいないから今のあなたがもの足りない空虚感に苛まれている。あなたは今ここにしかいないということを知るべきであろう。今のあなたが充実して楽しく明るい心であったなら、日々若々しい心でいるということになるのではないか。
第二に、自分のこと、周りのこと、とにかく好奇心をもって様々な物事やその変化に気づくこと。漫然と時を過ごしていては、楽しいことはない。人の言うこと、周りの情勢に流され鵜呑みにしていては、自分自身にとって何の発展も成長もない。日々、何事かに気づき、疑問に感じ、自ら考える。気づくということ。好奇心旺盛であれば、常に心若々しく過ごせるであろう。
第三に、年を忘れるということ。年を意識することで閉鎖的な発想に陥る。年だから何とかというのが口癖になったりする。身体とは相談しなくてはいけないかも知れないが、そうでなければ年を意識せず何にでもチャレンジする元気が必要だろう。
また、年を忘れるというのは、誰をも平等な目で見られるということでもある。年による上も下もなく、みんなを分け隔てなく見ることが必要だろう。年で相手を見るということは自分の年を意識しているということだから、そこからは若々しい心は生まれない。
ところで、仕事別に長寿度を測定すると、やはり、僧侶や医者というのが最も長寿ということになるらしい。昔、「童心は道心なり」と言われ、インドで貧しい子供たちの成長を楽しみにボランティアを続けておられる長老がいる。
はたして、あの良寛さんもそう言われたかどうかは知らないが、良寛さんは、飄々と小さな庵に住まい、托鉢して暮らしていた。良寛さんも、近くの子供たちとは、まこと自分を忘れて、童心そのものになって遊んだと言われている。
自分を忘れるというと、「忘己利他」という言葉が思い出される。自分自分という思いが私たちの苦しみの根源にあり、それを忘れ他と共に生きることができれば幸いであろう。
自分という思いが過去の記憶だとするならば、やはり、過去ではなく今に生きることが大切だということにもなる。それは、年を忘れるということにもつながる。まずは目の前の現実を見つつ、様々なことに気づき、今に生きる。とっさに答えたことではあったが、結局は、仏教の瞑想をそのまま日常にいかすということが、もっとも、若々しい心で生きることができるということに結論づけられたようである。
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