住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

名前のご縁の不思議 私的因縁物語3

2006年10月01日 15時45分26秒 | 様々な出来事について
それから私は、高校、夜間大学へと進み小さな会社に入社した。経済学部2年の時、高校時代の友人三人で早稲田大学文学部の門の前で待ち合わせ、久しぶりに語り合った。高田馬場のジャズ喫茶に連れて行かれ、良い気分で過ごしたあと、様々な思想哲学の話になった。が、残念ながらその時の私にはその手の話は苦手であった。しかしそれがために何か学ばねばという気持ちが芽生え、仏教書と出会うことになる。

原始仏教を中心に、インド思想、ヨーガ、占星術、密教などと様々な書籍を読みあさる日々が続いた。そうして仏教の世界に憧れ、自然と坊さんになりたいと思うようになっていた。父方の宗旨は日蓮宗、母方は曹洞宗だった。しかし、私は弘法大師の真言宗に、なぜか強く心惹かれた。それは、今ある日本の宗派の中で真言宗が最もインドくさい宗派であり、インド仏教の最終段階の教えであったからではないかと思う。

休暇を利用して一人で高野山にも参拝し宿坊に泊まった。頭の中でではあったが僧侶の世界が具体化してきた頃、職場の最長老の上司が亡くなった。葬儀に参列したとき、お越しになった僧侶方の姿、言葉に強い違和感を感じたことを記憶している。そして葬儀では和文の経文が唱えられた。

それは今思うととても発展的なことで試行錯誤の上のことであったであろうと思われるが、その時には何か不釣り合いなものに感じ、この世界には多くの改革すべき課題があるのではないかと、不遜にも思った。そうして僧侶の世界を窺い知ることで、自分にも何かお役に立てることがあるのかもしれないと思えた。

大学を卒業後もその気持ちに変わりはなかった。そして25、6才の頃、あれやこれや色々な理由を考えて自分が会社をリタイヤして坊さんになる事の意味づけをし自らを啓発して、周りにも説明した。しかしあれこれ考えたことどもは、みなそれは言い訳であって、ただ単にやはり仏教の世界に強く憧れたというに過ぎなかったのかもしれない。

退社して高野山に登り、弟子入りした高室院で数ヶ月を過ごし、それから僧侶養成の教育機関・専修学院で一年間学んだ後、高室院に私を紹介してくださった東京早稲田の放生寺で役僧として仕事をさせていただくことになった。

東京に戻ると、すぐに湯島のお寺に養子入りする見合の話が来ていた。結局進展することはなかったが、その後も青森、長野、奈良、逗子、小豆島など片手に余るお寺の話があったのだが、何れもご縁がなかった。

放生寺に住み込み、3か月ほどが過ぎた頃本堂の床掃除をしているとき、このお寺が私を仏教に出会わせてくれたきっかけとなる、あの友人二人と再会した早稲田大学文学部の門を見下ろす場所にあることに気付いた。

そしてその時、突如として仏教の縁起の教えが頭に閃いた。正に人生の様々な瞬間瞬間の選択肢に一つも違わずに今ここにある、目にしている人も町並みも車も今そこにあるのはそれぞれの行いの連続の中でここにあるべくしてある。

今目にしているものも聞く音もとても有り難い尊いものに思われた。すべてのものは瞬間瞬間の原因と結果によって、かくあるべくしてあると、因果の不思議をはっきりと、まざまざと見て取ったという感覚を得たのであった。

そしてその翌年、インドへ巡礼した。その後四国を歩いたり、禅寺で坐禅をしたり、東京で托鉢したりして生活した。そして2度目に巡礼したときにご縁ができ、インドのカルカッタにあるベンガル仏教会で南方上座仏教の僧侶として3年余り生活した。インドへ行かなくては仏教は分からない。そんな強迫観念をずっと持ち続けていたからであろうか。

それはひとえに、はじめて手にした仏教書『仏教の思想1〈智恵と慈悲〉ブッダ』(角川書店)の増谷文雄先生の、正にそこでブッダと対話をするかのような文体に魅了され、インドで息づくお釈迦様の仏教こそが本来の仏教であるという信念をもつにいたっていたからでもあった。インドの仏教僧院で上座部の僧として曲がりなりにも生活できたことは私にとって財産とも言える貴重な経験となった。

インドから戻って、日本僧に復帰した私は、日本滞在中居候させていただいていた放生寺を後にして、下町深川の冬木弁天堂という深川七福神の一つでもある小さなお堂の堂守となった。そこで3年3が月、江戸三大祭り、水かけ祭りで有名な富岡八幡の御輿総代方や辰巳芸者のお姉さん方との付き合いが始まるのだが、その話はまた別の機会にしよう。

ところで、私に人の生死について考える機会をつくってくれたのは、亡くなった同級生後藤君であった。そして、私が仏教そのものと出会うきっかけとなり、高野山への道筋をつけて下さった早稲田大学文学部門前にある放生寺ご住職は五島祐康師であった。

さらに、インドでベンガル仏教会でインド僧になるご縁を作って下さったのも、実は日本人インド僧後藤恵照師との出会いがあったればこそであった。三人のゴトウさんとのご縁によって僧侶としての階段を上ってきた。元の話に戻るようで恐縮ではあるが、名前の縁というのも実におもしろい、摩訶不思議なものだと私には思えるのである。

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コメント (7)
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