活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

エドアルド・キヨッソーネと日本の印刷

2011-02-15 15:03:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 この人だーれ?この肖像写真だけで即答できる人は印刷業界でもあまりいないかもしれません。エドアルド・キヨッソーネ、日本で亡くなって103年になる日本の印刷界の大恩人ですが、
その割に登場機会が少ないような気がしてなりません。

 私はあまり好きではない表現ですが、わかりやすくいえば、明治の「お雇い外国人」のひとりです。イタリアのジェノヴァ近郊のアレンファーノという小村で生まれた彼がジェノヴァからフィレンツェで美術を学び、ミラノの大学で教鞭をとったりしました。また、その後、ドイツにイタリア王国国立銀行の紙幣印刷のための技術習得に派遣されたりもしました。

 「本日ヨリ満三ヶ年間月給英貨百磅(ポンド)即日本通貨四百五十四円七十一銭八厘ニテ大蔵省紙幣寮御雇トナル」という辞令で日本の紙幣づくりの総本山に招かれたのが、1875年、明治8年1月12日でした。明治8年の454円がいったい今の貨幣価値でいくらになるのかは、はっきりしませんが、7千倍ぐらいと考えると317万円、実際は400万円ぐらいが妥当ではないでしょうか。当時のお雇い外国人の月給としては中どころでしょう。

 近代国家としてヨチヨチ歩きを始めたばかりの日本の大蔵省がキヨッソーネと縁ができたのは彼がフランクフルトの紙幣製造会社ドンドルフ社に派遣されていたときに、日本政府発注の新紙幣、いわゆるゲルマン紙幣の印刷に携わったことによるといわれております。これは明治5年のことですから、彼の来日した明治8年まで間がありますが、その間、彼は英国に移り、ロンドンのデラルー証券印刷会社で彫刻製版技術に磨きをかけていたらしいのです。

 キヨッソーネの日本での活躍については次回。
 
コメント
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