活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キヨッソーネは日本の「お札」をつくった

2011-02-16 11:28:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 お雇い外国人として来日した外国人にはイギリス人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の技術者、教師がもっとも多かったようです。それにくらべてイタリアから来たお雇い外国人は少なかったのですが、このキヨッソーネはじめ画家とか彫刻家、建築家などと、どちらかといいいますと芸術畑の人でした。画家の多かったのは明治9年に開校された工部省所管の美術学校で「西洋画法」の習得や研究を進めさせる政府のねらいがあったせいかもしれません。

 キヨッソーネは三年契約どころか明治8年から亡くなった1898年、明治31年まで23年間も日本に滞在して数々の仕事を残しました。
 なかでも紙幣・切手・印紙・公正証書などの製造の近代化と技術者の養成に大きな力を発揮しました。たとえば、それまで日本の紙幣の製版は「腐食法」を採用していましたから、どうしてもシャープさに欠けました。キヨッソーネは銅版や鋼版にビュランと呼ばれる彫刻刀で図柄を彫刻するエングレービング技法をとりました。
 もっともこの技法は取り立てて新しいものではなく、1596年にいまの長崎県有家のセミナリヨでつくられ大浦天主堂にある『聖アンナと聖母子』の銅版画に見られるように200年も前に
日本にもたらされていながら開花していなかったものです。

 また、切手や印紙、証券の製版にはエルヘート凸版技法を採用したり、クラxッチ法と電胎法導入で偽造が防止でき、大量生産に向いていながら精度の高い製造法を駆使しました。

 彼の来日直後、最初に腕を振るったのが国立銀行紙幣、「交換銀行紙幣」の1円券、明治12年です。
 写真は上から「神功皇后札」と呼ばれた改造紙幣拾円券日本銀行兌換銀行、日本銀行兌換銀券百円券「大黒札」同じく一円券です。 
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